真珠湾攻撃が変えた人生――日系米国人の苦難

大井真理子記者

米カリフォルニア州サンブルーノの日系人収容所で夕食のため並ぶ人々 Image copyright Dorothea Lange
Image caption 米カリフォルニア州サンブルーノの日系人収容所で夕食のため並ぶ人々

真珠湾攻撃は、第2次世界大戦終了後も長きにわたり、日系米国人の人生を形作った。安倍晋三首相がハワイを訪れるなか、日系米国人たちが戦時中に受けた強制収容や処遇は、現在の政治に今も影響し続ける。

バラク・オバマ米大統領と安倍首相が5月下旬、広島で肩を並べて共に立った時、2人は新たな歴史を刻んだ。オバマ大統領は現職大統領として初めて、米国が原爆を投下したその地を訪れたのだ。

2人は今月27日(日本時間28日)、歴史的な訪問で再び顔を合わせることになる。場所は真珠湾だ。

日本が1945年12月7日(同8日)に米海軍基地を攻撃した時、世界のほかの地域はすでに戦争状態にあった。その後間もなく、米国は連合軍に参加した。

第2次世界大戦では5000万人以上の軍人と民間人が殺され、史上最悪の犠牲者を出した戦争となった。

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Image caption 日系人の強制退去を通告する張り紙

しかし真珠湾攻撃の影響を受けた人たちはほかにもいた。日系米国人だ。

「日本民族は敵の民族だ」と、1942年に実施された、西海岸からの日系人強制退去の最終報告書に、ジョン・デウィット中将は記している。「2世、3世の多くは米国の地で生まれ、米国籍を有し、『米国化』しているが、民族的な気質は薄まっていない」

フランクリン・ルーズベルト大統領は1942年2月、大統領令9066号を発令し、民族的背景を理由に12万人を米国西海岸から強制収容所に連行した。3分の2は米国で生まれた人たちだった。

収容所は全米に10カ所あり、収容された人たちは平均で3年間、有刺鉄線が張り巡らされた中で過ごした。

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Image caption 強制収容所に向かうバスを待つモチダさん一家(1942年、米カリフォルニア州ヘイワード)

日系人を強制収容していた事実は比較的知られているが、彼らの苦悩はそこで終わらなかった。1941年当時18歳だったローソン・イイチロー・サカイ氏のような日系人の場合、特にそうだった。

「白人のクラスメイト3人と一緒に、米海軍に志願しました。3人は受け入れられましたが、私は入れなかった」とサカイ氏は話す。

「『なぜ駄目なのか? 私も米国人だ』と尋ねましたが、敵国人だと言われました。つまり、私はもはや米国人ではなかったのです」

「心底、母国に拒絶されたように感じました」と、93歳の退役軍人のサカイ氏は当時を振り返った。

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Image caption ローソン・イイチロー・サカイ氏は当初、米軍入隊を拒否された。日系であるというのが理由だった

米軍は1943年3月、より多くの兵士が必要となり日系米国人の入隊を受け入れるようになると、サカイ氏はすぐに志願した。

日系米国人の男性3万人以上が、米国陸軍に従事した。その多くは、第442連隊戦闘団として知られる、主に日系人からなる部隊の隊員だった。

部隊のスローガン「Go for broke!(死ぬ気で行け!)」の下、連隊は最も過酷な戦闘に送られた。

Japanese Americans in World War Two

120,000

sent to internment camps, leaving behind homes in the US West Coast

  • 30,000 served in US military

  • 9,486 Purple Hearts awarded to members of the 100th Infantry Battalion and 442nd Regimental Combat Team

  • 5 Presidential Citations in 20 days of fighting for the 442nd

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<12万人に及ぶ日系人が強制収容所に入れられた一方で、3万人の日系人が米軍に入隊した>

第442連隊は、イタリアとフランスを攻撃し、その死傷率は桁外れに高かった。サカイ氏自身も4度負傷し、青銅星章とパープル・ハート章を1度ずつ受勲している。

サカイ氏は、自分の部隊が繰り返し危険な場所へ送り込まれたことについて、米軍を恨んではいないと言う。

「持てる中で最強の戦力を使う将官を責められますか?」とサカイ氏は話した。「死にたい人などいないし、部下が死ぬのを見たい人などいない。でも我々は戦争に勝とうとしていた。このころまでには、自分たちが忠誠な米国人だということを我々はすでに証明していました」

第442連隊が1946年7月に米国に帰還すると、ハリー・トルーマン大統領は、ホワイトハウスで行われた式典の中で連隊を評価し、演説の中で退役軍人たちに次のように語った。「諸君は敵のみならず偏見とも戦い、そして勝利した」

米国への忠誠を証明し続けるために、日系米国人の中には、日本の指導者たちを戦犯として裁くために設けられた、一般的に東京裁判として知られる極東国際軍事裁判に通訳として従事する人もいた。

デイビッド・アキラ・イタミ氏は強制収容所で1年間過ごした後、米軍に志願。陸軍情報部に配属され、日本語の書類を翻訳していたが、その後、米国主導による戦後の占領下の日本に士官として配属された。

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Image caption Translators for the International Military Tribunal for the Far East were torn between their two motherlands

1946年当時、英語と日本語の両方を話せる人は非常に少なかったため、イタミ氏の役目 は、通訳の仕事が正確であるよう確認することだった。裁判記録からは、日本の将官たちが言葉を遮られる前に文章をすべて言い終わらせようとする、イタミ氏の様子がうかがえる。

しかしイタミ氏のこの経験は、大きな負担になっていたのかもしれない。東京裁判が結審して間もなく、イタミ氏は1950年に39歳で自ら命を絶った。

ロナルド・レーガン大統領は1988年、第2次世界大戦中の日系米国人の扱いが、「人種的偏見、戦時中の興奮状態、そして政治指導部の失策により突き動かされた政策」だったと糾弾した。

レーガン大統領は、強制収容所に入れられていた10万人以上の日系人を補償するため、「市民の自由法」に署名した。

しかし今年11月、ドナルド・トランプ次期大統領の支援者のカール・ヒグビー氏は、テロ集団の活動が活発な国からの移民全員を登録する制度の「前例」として、第2次大戦中の日系人強制収容を引き合いに出した。この制度が現実のものとなると、ムスリム系米国人に大きな影響を与える可能性がある。

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Image caption 幼いマイク・ホンダ下院議員と父親。ホンダ議員の一家はコロラド州のアマチ強制収容所に入れられた

幼児期に強制収容所に送られた経験を持つ日系人のマイク・ホンダ下院議員は、この発言を「不穏どころではない」と批判した。

75歳の同議員は声明の中で、「これはヘイト(憎悪)であり政策ではない」とし、「少数民族を登録させる政策は米国を貶め、米国の未来を1940年代の偏狭的な考えに委ねることになる」と続けた。

「人種や宗教、その他、米国を分断させようとする根拠がいかなるものであれ、私の家族や罪のない12万人が味わった苦しみを、誰ひとりとして経験すべきではない」

BBCの取材に対し同議員は、トランプ氏が「はっきりとした声明を出してみんなが間違っていると証明してほしい」とし、それまでは自身の判断を差し控えると語った。

「しかし今のところトランプ氏の閣僚人事を見ると、不安になる」とホンダ氏は話した。「トランプ氏は、次期政権のメンバーとして自らが選んだ、より極端な見方をする人たちに影響されるかもしれない」。

(英語記事 How Pearl Harbor changed Japanese-Americans

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