モーツァルトと「ライバル」サリエリの共作 チェコで初公演

チェコ・プラハで昨年11月に発見された18世紀の作曲家モーツァルトの共作曲が16日、発見後初めて演奏会で披露された。作品は、モーツァルトだけでなく、ライバル関係にあったと言われるアントニオ・サリエリのほか、コルネッティという無名の作曲家が作者として連名されている。

作品は演奏時間4分のカンタータで、楽譜が発見されたチェコ音楽博物館でハープシコード奏者によって演奏された。

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モーツァルトとサリエリ、共作した曲の演奏

博物館の広報担当者、サルカ・ソカローバさんは「とても貴重な作品」だと語った。

1785年に書かれたこの作品は、博物館が20世紀半ばに購入したもので、符号化されていた作者名が解読できたのは最近だという。

ドイツの音楽学者で作曲家のティモ・ヨウコ・ヘルマン氏は、博物館の目録をウェブ上で閲覧していた際に、作品名に目が留まったという。同氏は、「モーツァルトとサリエリとの関係に新しい解釈を得る上で重要」な作品だと指摘した。

嫉妬に駆られて

サリエリがライバルのモーツァルトに嫉妬して毒殺したという噂は、歴史家たちが否定してきたものの、いくつかの舞台作品や、アカデミー賞を受賞した映画『アマデウス』に取り上げられ、広く知られている。

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ハープシコードで作品を演奏するルカシュ・ベンドルさん(16日)

ザルツブルク・モーツァルテウム財団のウルリッヒ・ライジンガー氏は、「映画『アマデウス』の描写はよく知られているが、それは事実と異なる。サリエリはモーツァルトを毒殺していない。だが、2人ともウィーンで仕事をし、ライバルだった」と語った。

今回演奏された共作の題名「Per la ricuperata salute di Ophelia」は「オフィーリアの健康回復に寄せて」という意味。ソプラノ歌手ナンシー・ストレースが病気から回復したことを祝って書かれた。

歌詞は、ウィーンの宮廷詩人でサリエリと頻繁に共作していたロレンツォ・ダ・ポンテによる。

ライジンガー氏は、作品は「偉大ではない」が、「モーツァルトのオペラ作曲家としての日常に光を当てるものだ」と語った。同氏は、「作品は明らかに本物で、真偽を疑う理由がない」と語った。

同氏はさらに、「モーツァルトのほかの作品がいつ見つかるかは分からない。またすぐあるかもしれないし、100年後かもしれない」と語った。

モーツァルトの作品については、近年いくつかが新たに発見されている。一部はモーツァルトの幼少時代に書かれたものだとみられている。

モーツァルトはどんな作曲家だったのか

ウルフガング・アマデウス・モーツァルトは、オーストリアのザルツブルクで大司教に仕えるバイオリン奏者の息子として1756年に生まれた。

父親はウルフガングのたぐいまれな才能を早くから理解し、演奏旅行で欧州中を連れて回った。できるだけさまざまな音楽や文化に触れさせるためでもあった。

旅行に明け暮れる日々のせいでモーツァルトは生涯にわたり病弱だったが、コスモポリタンな音楽様式の形成を大きく助けたことは間違いない。

バイエルン選帝侯カール・テオドールからオペラを委託されたモーツァルトは、それまでの経験をすべてつぎ込んで「イドメネオ」(1781年)を作曲。その年、モーツァルトはザルツブルクを離れ、より洗練された音楽文化があったウィーンに移り住む。

ウィーンでは、フリーランスで作曲活動を行い、ピアニストや音楽教師として働いた。

当初は大きな成功を収めた。この頃、「フィガロの結婚」(1786年)、「ドン・ジョヴァンニ」(1787年)、「コジ・ファン・トゥッテ」(1790年)とオペラの名作が相次いで生まれている。しかし、人気が衰えた時には多額の負債を抱えていた。

最後のオペラ作品「魔笛」の初演に成功して間もない1791年12月、35歳で死亡した。