ジョージ・マーティンがビートルズと出会ったとき――Love Me Doの物語
マーク・サベッジ 音楽担当記者
画像提供, Rex Features
録音スタジオでビートルズとジョージ・マーティン
1962年5月。ドイツ・ハンブルクにいたビートルズのもとに、興奮した内容の電報がロンドンから届いた。
EMIレコードの子会社とレコード録音契約が結べることになったと、マネージャーが書いていた。最初のレコーディングのために帰国するようにという内容だった。
本当は違った。
ブライアン・エプスタインが取り付けたのは実は、ジョージ・マーティンとのオーディションに過ぎなかった。マーティンは当時、ピーター・セラーズやバーナード・クリビンスのコメディ・レコードを製作したプロデューサーとして知られていた。
しかもマーティン自身は、このバンドはものにならないのではと疑っていた。
「ブライアン・エプスタインに聞かされたテープには、あまり感心しなかった」 1996年にラジオ番組Desert Island Discsでマーテインはこう話している。「そこに何かはあるんだけれども、価値のあるものかどうかが分からなかった」。
「なのでブライアンには『今かけてるこれで判断しろというなら、申し訳ないが、断るしかない』と告げたんです」
「あまりにがっかりされたので、本当に気の毒になってしまった。ものすごく誠心誠意な若者だったので。なので助けの手を差し伸べることにした。『リバプールから連れてこれるなら、スタジオを1時間使っていい』と」
画像提供, Rex Features
1964年のビートルズ
そこでビートルズは1962年6月6日の午後、アビー・ロードの第3スタジオに入った。しかし持参した機材があまりにボロボロで、最初はうまくいかなかった。何よりひどかったのがポール・マッカートニーのアンプで、あまりに音をひどくゆがめるので、録音技師たちはEMIのエコールームから巨大スピーカーを代わりに運びこむ羽目になった。
録音技師ノーマン・スミスは後に録音技術サイト「Sound On Sound」で、「ビートルズの機材からは何も音が拾えなかった。出てきたのは大量の騒音と反響と、あと得体のしれないものだけ」と話した。
この問題がなんとかなると、午後7時ごろに最初の演奏を開始した。コンスエロ・ベラスケスのボレロ・バラード「ベサメ・ムーチョ」のカバーだ。
評価されなかった。
「4人をちらっと見たマーティンが、食事をとりに席を立ったのを覚えている」と録音技師ケン・タウンセンドは言う。
しかしバンドが次の曲を始めると、テープ技師のクリス・ニールが急ぎスタジオの食堂に上司を探しに行かされた。曲はレノン・マッカートニー自作の「Love Me Do」だった。
食堂から連れてこられたジョージ・マーティンは、録音を仕切り始めた。まだ納得はしていなかったのだが。
2011年のBBCアリーナ番組でマーティンはこう言っている。
「音楽は全くダメだと思った」
「自分が何を聴き取ろうとしていたのか、自分でもよく分からなかった。ソロとバックコーラスという組み合わせに慣れきっていたので。でもこの4人はそれぞれが何だかいろんなことをやっていた」
「クリフ・リチャードとシャドウズとは違う。それは確かだった」
画像提供, Getty Images
マーティンはビートルズの音楽的な実験や挑戦を支え続けた
ビートルズはさらに「P.S. I Love You」と「Ask Me Why」の2曲を披露。録音セッションが終わったのは午後10時ごろだった。
マーティンは4人をコントロール・ルームに招き入れ、何が問題だと思うかを非常に丁寧に説明していった。
「機材について長々と説教して、プロの録音アーティストになるなら何をどうしなきゃならないかを講義した」とノーマン・スミスは振り返る。
マーティンは特に、ピート・ベストのドラミングにこだわり、リバプールのキャバーン・クラブでは良くても録音スタジオでは何がどうダメなのか説明を重ねた。
この結果、ベストはバンドから外され、代わりにリンゴ・スターがドラム担当となった(リンゴ・スターでさえ、後にシングル用に録音し直したLove Me Doでは演奏を許されなかった。代わりにドラムスを担当したのはスコットランド出身のセッション・ドラマ―、アンディ・ホワイトだった。ホワイトは昨年亡くなっている)。
ベストの母親モナは激怒して、マーティンに苦情の電話をかけた。後にリバプールのジャーナリスト、ビル・ハリー(地元紙マージー・ビートで、スター街道を駆け上るビートルズについて書き続けた記者)に、モナはこう語っている。
ピート・ベストを外すことにしたバンドの決定に驚いたと、マーティンは話したそうだ。「ピート・ベストを外さなくてはだめだと言ったことはない。ビートルズの最初のレコードのためには、セッション・ドラマーを使いたいと言っただけだ。まさかブライアン・エプスタインが彼を解雇するとは思わなかった。見た目だけで言うなら、商品価値が一番高そうだったのに」と、マーティンはモナ・ベストに説明したという。
画像提供, Rex Features
マーティンは後に、同業者ノリー・パラモアがクリフ・リチャードで成功しているのがうらやましくて、自分もロック・バンドと契約したかったのだと認めている
アビー・ロードでビートルズをひとしきり説教したマーティンは、4人に反論の機会を与えた。
「ずいぶん長々と言いたいことを言ってしまった。何も返事がないけど、何か気に入らないことはあるかな」
「まず、おたくのネクタイが嫌いだ」とジョージ・ハリソンが答えた。
これで全員の緊張が解けて、リラックスしたビートルズはお笑いモードに入った。
「それから15分か20分の間、(ビートルズは)ひたすら周りを楽しませようと冗談を連発し続けた。自分はあまりに大笑いして涙が止まらかった」
ためらいながらも、マーティンは結局、ビートルズには「ヒットを出す可能性がある」と判断し、6月6日にレコード契約を提示した(レコーディング・セッションの内容についても著作権を得るため、契約上の開始時期は2日前に設定した)。
自分がビートルズを受け入れた理由は、その音楽というよりはむしろ「とてつもないカリスマ性」だったと、マーティンは後に認めている。
「一緒にいると、その分だけ自分の状態が良くなる。彼らがいなくなると、自分の何かが欠けたような気がする」とマーティンはDesert Island Discsで話した。
「僕は恋に落ちたんだ。ただそれだけのこと」