ビートルズ解散後「落ち込んでた」 ポール・マッカートニーさんBBC番組で
マーク・サベッジ、音楽担当記者

サー・ポール・マッカートニー
BBCラジオに出演したサー・ポール・マッカートニーはビートルズ解散後に落ち込んでに苦しんでいたと、率直に話した。28日に放送される番組の収録で、1970年のバンド解散後はしばらく音楽そのものを止めようか迷っていたと認めた。
サー・ポールは司会者ジョン・ウィルソンに「ビートルズのあと何をすればいいのか、なかなか思いつかなくて。あのあとに何をすればいいんだって」と話した。
「落ち込んでた。そうなるよ。(略)ずっと一緒だった仲間とバラバラになるって時で」。だから酒に頼ったのだとサー・ポールは認めた。
ポール・マッカートニー、ビートルズ解散で落ち込み酒に…
ビートルズは1970年にアルバム「Let It Be」の発表で正式に解散した。しかしその破綻の種は1年前、サー・ポールの意向に反してアレン・クラインをマネージャーに雇った時からまかれていたのだ。
クライン氏は赤字まみれのアップル社の立て直しを助けたものの、利益のかなりの部分を報酬として自分のものにし、ビートルズの曲の米国版権を自分の会社のものにした。
クライン氏はさらに「Let It Be」のアレンジにフィル・スペクターを呼び入れ、コーラスとオーケストラとドラムスを追加。サー・ポールの初ソロ・アルバムのリリースを遅らせようとEMIに働きかけた。こうしたやり方が、ますますサー・ポールを怒らせたのだ。
クライン氏の影響を振り払うためには、サー・ポールはバンドのほかの3人を訴えるしかなかった。ついにジョン・レノンとの絆が切れてしまったのは、法律を間に挟んだこの苦い対立のせいだった。
ウィングスを作ったのは「もうビートルズじゃないショックから立ち直るため」とサー・ポール
「ビジネスのせいでバラバラになった」とサー・ポールは言い、「しんどい会議」ばかりで「頭がおかしくなりそうだった」と振り返る。
あまりに落ち込んでしまったせいで、「音楽を続けるのかも」分からなくなったという。
それから間もなく、マッカートニー一家はスコットランドに引っ越した。会議に出られなくするため。そして、酒におぼれるため。
「ボロボロだった」とサー・ポールは言う。「(妻の)リンダが『しゃんとしなきゃ』と言ってくれて、それがウィングスにつながったんだ」。
「バンドっていうのはいいなと思って。また原点に戻りたかった」
ただしそのバンドは「ド下手だった。いいグループじゃなかった。『リンダはキーボードできないのに』ってみんなに言われたし、その通りだった」と認めつつ、サー・ポールはこう付け足した。
「でも(ビートルズを)始めた時、ジョンもギターができなかったし」
「マッカートニー教授」の音楽授業
BBCラジオ4番組「Mastertapes」の収録は、ロンドンにあるBBCの歴史的なメイダベール・スタジオで行われた。1960年代にビートルズが何度もラジオ用に演奏を録音した場所だ。
公開録音の客席には、ブラッド・ピット、ポール・ウェラー、ノエル・ギャラガー、マーティン・フリーマン、ジェイムズ・ベイ、サイモン・ペッグといった著名人のほか、一般客100人が集まり、サー・ポールと質疑応答の機会を得た。
サー・ポールは、「Maybe I'm Amazed」や「Coming Up」、「Dance Tonight」などソロ曲の作曲について語り、ウィングスのアルバム「Band on the Run」やビートルズの「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」についても振り返った。
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2015年グラミー賞授賞式でリアンナやカニエ・ウェストと共演した
カニエ・ウエストとの最近のコラボレーションについても語り、「曲を作ろうと集まったんじゃない。ただお互いにあんなことがあったこんなことがあったと話してるだけがほとんどだった」と明かした。
「みんな彼をエキセントリックだっていうし、それはその通りだと言うしかないな。モンスターだよ。最高のものを作ってくるものすごい奴だ」
サー・ポールはさらに、1980年にジョン・レノンがいきなり亡くなるまでの間に、ふたりの関係が改善していたことも話した。
「ときどきジョンに電話してた。ただ子供の話とか、パンを焼く話とかしてたんだ」
(ポール・マッカートニー出演のBBC Mastertapesはラジオで英国時間28日午前10時(日本時間午後6時)放送。BBCラジオは英国外からでもインターネットで聴くことができる。英国内からは映像を視聴可能)