「私が太ってるからってネットで嫌がらせするのは気の毒な人たち」

Lindy West

米国のフェミニストでパフォーマーのリンディ・ウェストさんは、自分のことを進んで「デブ」と呼ぶ。しかし、自分の体が大きいからといって、赤の他人に自分を侮辱する権利はないはずだ。なぜインターネットには平然と自分を罵倒してくる人たちがいるのか。嫌がらせ常習者とついに一対一でやりとりした結果、ウェストさんは相手を気の毒に思うようになったと話す。


今朝起きたら「デブ」というタイトルのメールが来ていた。本文は「ブーブー」というブタの鳴き声だけ。こういうメールやツイートは毎日届く。今日のは、かなりましな方だ。

この送り主のほかにも、似たような人間が何千人といる。そういう連中は、私のような太った女が幸せに暮らし、充実した楽しい日々を送っていることが耐えられないのだ。

こういうコメントが続くと、心がどんどん弱ってくる。世の中には人を傷つけたくてたまらない人々がこんなに大勢いるのかと、心配になる。しかし私はライターで、パフォーマーでもあるので、これほどの憎悪に我慢するのも「仕事のうち」だといわれる。

けれども、これがほかの職場だったら? どこでもいい、他の職場で同じようなことがあったらどうなるだろう。あなたのところに何千人もの人たちが押し寄せてきて、思いつく限りのひどい言葉、すさまじく暴力的で脅迫的な言葉を投げつけてきたら。そんなことが許されるとしたら。

数年前には、それまでで一番ひどい嫌がらせをネットで受けた。知らない相手がツイッターに私の父を名乗るアカウントを立てたのだ。父はその1年半前に亡くなっていた。アカウントの主は父の写真まで載せていた。当時ネットに流れた死亡記事から取ってきたのだろう。

プロフィールには「馬鹿な自分の子が恥ずかしい父親」と書いてあった。位置情報は「穴の中」。この男はこの偽アカウントを使って、ひどいメッセージを次々と送ってきた。

私はそのせいでどんな気持ちになったか、記事に書いた。アカウントの主は記事を読んだらしく、メールで謝ってきた。ネットいじめの常習者がそんなことをするなど信じられなかったし、そんな話は聞いたこともなかった。

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Image caption リンディ・ウェストさんには「声高――やかましい女の言い分」という著作もある

そこで昨年、私はこの人にラジオ番組「This American Life」に出てくれないかと頼んでみた。どうしてあんなことをしたのか、ラジオで説明してほしいと。彼いわく、私の名前をネットで検索して父のことを知り、その情報から偽アカウントを作ったそうだ。

「たちまち気分は最悪だった。ふだんはネットでどんなに憎悪をまき散らしても忘れてしまうが、これだけはずっと心に引っかかっていた」

彼が言うには、私に攻撃的なメッセージを送りつけてきた頃、彼はどん底の状態にあった。仕事が大嫌いで、恋人にふられたばかりで寂しかった。自分の体が大嫌いで、太り過ぎだと悩んでいた。本人いわく、味気のない人生だった。

彼を突き動かしていたのが自己嫌悪だったと知って、目からうろこが落ちる思いだった。私に目をつけたのはなぜかというと、私が堂々としていてとても幸せそうに見えたからで、それがなぜか彼の怒りをかき立てたのだった。

ひょっとしてそうかなとは思ってはいたが、本人が確認したおかげで、ほかの嫌がらせアカウントへの対応も前より楽になった。そういう相手に鉢合わせた時、私は「気の毒に」とどこかで思うようになったのだ。相手が苦しめばいいとは思わない。そもそも向こうが辛い思いをしているからこそ、こんなことになっているのだ。相手は私の人間性を見失ったかもしれないが、私は向こうの人間性を見失わないよう気を付けている。

嫌がらせアカウントの主と話をするのは簡単で、楽だったとさえ言える。好感を抱いた。こんなにも普通の人だったのかと恐ろしくもなった。彼はその頃、人生を立て直そうとしていて、もうネットで嫌がらせをするのはやめたと言っていた。

嫌がらせアカウントの中の人たちが抱える不安を、メディアやテクノロジーが煽っていると責めるのは簡単だ。だがこれはもっと根深い文化の問題だと、私は思う。社会の中で女性は攻撃しやすい標的だと見られるし、太った人を批判するのは正当なこととさえ考えられている。

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Image caption リンディ・ウェストさんは2013年、「女性メディアセンター」のソーシャルメディア賞を受賞した

太っている人を社会のお荷物と見る風潮がある。私たちは怠け者で頭が悪いとか、快適な市民生活の妨げになるとか、飛行機や列車で隣に座られると場所を取り過ぎるとか。

魅力的な作り話だ。太っていない人は自動的に知的で清廉潔白ということになるので。なので私たちを攻撃していれば、自己肯定感が得られるのだろう。

みんな他人の良し悪しを批評するばかりでなく、もっと他人の気持ちに寄り添おう――私たちはそう促すべきだと思う。私は若いころ、現実ではなくひたすら未来を待ちわびていた。思い切りやせて、目指す体形になって初めて、自分の人生が始まると思い込んでいた。20代後半になってやっと、自分の人生が保留状態にあると気づいた。そこから踏み出して人生を生きるために、自分の体形と折り合いをつける必要があった。

今はもう体形でくよくよしたりしない。運動して栄養のある物を食べるのは、今でもとても大事なことだ。でももう、昔みたいにびくびくしていない。

たとえ体が特定のサイズまで縮まなかったとしても、自分はダメだとか、自分を罰して後悔しなきゃとか、そんなことは思わない。そういうのは健康に良くないと思う。常にごめんなさい、恥ずかしいと思いながら生活するのは、確実に精神衛生に良くない。嫌いな自分を大事にはできないからだ。

仕事が順調に増えて私の見た目が知られるようになると、個人攻撃コメントもどんどん増えた。最近は毎日少なくとも1つ、ツイッターに意地悪なコメントが書き込まれるが、こんな状態は間違っている。

人には生きていく上で、たくさんの選択肢がある。憎悪をむき出しにするかわりに、人に優しくする方を選ぶこともできる。心を開いて思いやりある生き方をすること。私たちは世界に対してそうしなくてはならない。

(取材:クレア・ベイス、ジェニー・マリー)

(英語記事 I pity trolls who hate me because I'm fat

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