【英国民投票】離脱推進のファラージ氏、党首辞任 「生活を取り戻したい」

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ナイジェル・ファラージ氏は過去10年間、何度か党首を辞任してきた
ナイジェル・ファラージ氏は約20年間、英国を欧州連合(EU)から離脱させるために運動してきた。スローガンは「自分の国を取り戻したい」だった。
イギリス独立党(UKIP)党首はついに、あらゆる障害を乗り越えて、究極の政治目標を達成した。そこで使い続けてきたスローガンを自分に向けた。「自分の生活を取り戻したい」ので、党首を辞任するのだと記者団に告げたのだ。
ファラージ氏は20年来、英国における欧州懐疑主義の「顔」だった。そして泡沫政党に過ぎなかったUKIPはファラージ氏の下で、2015年の総選挙では3番目の票数を獲得するまでになった。そしてファラージ氏は、EU離脱に投票するよう1700万人以上もの人を説得したのだ。
自ら率いる政党とこれほど一体化して、認識された政治家も少ない。その成功の大部分は、ファラージ氏の直接的な物言いや「普通の人」らしいイメージによるものだ。ビールのパイントグラスやたばこを手に(時には両方を手に)大きく笑う姿は、写真編集者にとって実にありがたいものだった。
「その辺のパブにいる普通の人」というイメージ、そして「ポリティカリー・コレクト」な態度を馬鹿にしきった態度を武器に、ファラージ氏は政敵をまじめすぎる、政策スローガンを機械的に口にしているだけだなどといくらでも攻撃することができた。
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このため、移民制限強化とEU離脱という主な主張に賛成する人たちは、ファラージ氏を好きになったし尊敬もした。
酒場で気ままに放談する哲学者というイメージの通り、ファラージ氏は色々な相手と口論になった。
昨年の総選挙前のテレビ討論会では、移民が国民健康サービス(NHS)を使って高額なHIV治療を受けていると発言。これに怒ったウェールズ国民党のリアン・ウッド党首は、「恥を知りなさい」と強い調子で叱責した。
しかし対抗勢力から「言語道断、とんでもない」と幅広く非難されたこの発言も、UKIP関係者によると、支持基盤を揺り動かすために慎重に計算され、あらかじめ用意されたものだった。「何百万人」という労働者階級の有権者ならファラージ氏のこの発言を支持するはずだと、陣営幹部は発言している。
では株式仲買人の息子がいったいどうやって、多くの不満を抱える労働者階級の代弁者となったのか?
ナイジェル・ポール・ファラージは1964年4月3日、英南東部ケントで生まれた。父親ガイ・オスカー・ジャスタス・ファラージはアルコール依存症で、ナイジェルが5歳の時に家族を捨てた。
それでもナイジェルは、いわゆるアッパーミドル(中流上位)の子供として普通に育てられた。有名私立校のダリッチ・コレッジに通い、そこでクリケットやラグビーや政治討論を好むようになった。
18歳の時に大学進学よりも金融業界に進む方を選び、ロンドンのシティで働き始めた。
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ファラージ氏の選挙手法は他の政治家とまったく違っていた。写真は2010年総選挙前のファラージ氏。
きさくで明るく若々しいファラージ氏は、金属取引所の顧客や同僚トレーダーたちの間で人気者となった。1986年の金融市場改革「ビッグバン」でシティが刷新される直前に働き始め、十二分に豊かな生活を手に入れたファラージ氏だが、やりたいことはほかにあった。政治だ。
保守党に参加したが、当時のジョン・メイジャー首相率いる党の方向性に幻滅した。欧州各国の「より近い連合」を掲げた欧州連合条約(マーストリヒト条約)に首相が署名した時には、欧州懐疑派のひとりとして激怒。離党を決意し、当時は「反連邦同盟」という名称だったUKIPの創設メンバーになった。
これまでに何度か命の危険にさらされてきたファラージ氏の最初の大事故は、20代前半のことだった。ケント州オーピントンのパブから帰宅中に車にひかれ重傷を負い、脚切断の危険もあった。この時の看護師グレイン・ヘイズさんが、最初のファラージ夫人となった。ヘイズさんとの間には息子2人がいる。また1999年に再婚したドイツ人のカーステン・メアさんとの間には、娘が2人いる。
自動車事故から回復した後、精巣がんと診断される。完全に回復するものの、この経験で自分は変わり、今まで以上に人生を最大限に活用しようと決心したとファラージ氏は話した。
ファラージ青年はあり余る元気と熱意に溢れていた。しかしUKIPから出馬しても、当初はなかなか思うような結果は出なかった。
1997年の総選挙では、億万長者の実業家サー・ジェイムズ・ゴールドスミスが支援する国民投票党にお株を奪われた。しかし国民投票党が次第に力を失うと、EUを嫌うその支持基盤が徐々にUKIPに移った。
1999年の欧州議会選挙では、小政党に有利な比例代表制度のおかげでUKIPは初めて議席を獲得。当選した3人のひとりとして、ファラージ氏は欧州議会でイングランド南東部を代表するようになった。
欧州議会への参加はUKIP党員の間に激しい対立を巻き起こした。UKIPはこのころから、何かと騒がしい党内対立の絶えない組織になりつつあった。
ファラージ氏は、元テレビ司会者のロバート・キルロイ=シルク元労働党議員を2004年欧州議会選に擁立。これでUKIPは広く注目集めたが、キルロイ=シルク氏が党をわがものにしようとしたため、これはむしろ裏目に出た。
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2004年に記者会見するロバート・キルロイ=シルク氏(手前)とファラージ氏
UKIPにとって動乱の日々だったが、その年の欧州議会選では議席を12に伸ばした。
2006年には地味なロジャー・クナップマン党首の後任にファラージ氏が就任。当時から保守党のデイビッド・キャメロン党首を、激しく批判していた。そしてキャメロン氏もUKIP党員を「頭のいかれたおかしな連中で、隠れ人種差別主義者」と呼んでいた。
新党首となったファラージ氏は報道陣に、保守党員の「10人に9人は」実は欧州についてUKIPと同じことを考えていると強調。またUKIPは保守党に宣戦布告するのかと聞かれると、「政界エスタブリッシュメント全体とUKIPとの戦争だ」と答えた。
2009年の欧州議会選のころには、ファラージ氏はすでにテレビの討論番組の常連となっていた。UKIPは労働党や自由民主党よりも多く得票し、議席数を13に増やした。
しかし国内の選挙で苦戦し続ける限り、ブリュッセルやストラスブールを拠点に英国をEUから離脱させるのは無理だとUKIPは承知していた。そこでファラージ氏は2009年に党首を辞任し、ジョン・バーコウ下院議長(保守党)の対立候補としてバッキンガムから下院議員に出馬した。
総選挙を2カ月後に控えた2010年3月には、欧州議会で当時のヘルマン・ヴァン・ロンプイ欧州理事会議長に向かって、「濡れた雑巾ほどのカリスマ」しかない「銀行の下級事務員のような見てくれだ」と罵倒し、大いに話題になった。
この時の映像はインターネットで広く拡散され、ファラージ氏の知名度は上がったが、ロンドン・ウェストミンスターの下院への道はまだまだ遠く、総選挙ではバーコウ氏と独立系候補に続く3位に終わった。
ファラージ氏が自分の後任党首に選んだピアソン卿は、矢継ぎ早な討論やアピールが必要な現代政治のペースには不向きで、UKIPの全国支持率はわずか3.1%にとどまった。
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2010年総選挙の当日、乗っていた飛行機が墜落した
しかしさらにひどい個人的悲劇が待ち構えていた。5月6日の投票日当日、ファラージ氏を乗せた飛行機が墜落。UKIPの宣伝バナーが尾翼にからまったのが原因だった。
残骸の中から救出された重傷のファラージ氏は、搬送先の病院で回復すると、ロンドン・イブニング・スタンダード紙に対して、経験で自分は変わったと話した。
「正直言って、前よりもっと自分らしくなったと思う。前よりも運命を信じるというか。前よりも、これは予行演習じゃないんだと確信するようになった。前よりも目的に向かって決意を固めている」
再び党首になると決心したファラージ氏は、ピアソン卿の辞任後、やすやすと党首の座に返り咲いた。
2004年にポーランドやバルト3国など計10カ国がEUに加盟し、EU域内からの移民が増え続けたことで、移民問題は英国政治の課題として急速に拡大しつつあり、その勢いにのってUKIPやファラージ氏も勢いを増した。
再び党首となったファラージ氏は、EU加盟国でいることと移民問題の拡大に党の主張を集中させた。英国の「門戸開放政策」のせいで、高速道路M4は渋滞し、ロンドンではルーマニア移民による犯罪が急増し、住宅や医療や学校の生徒枠は不足し、若者の仕事もなくなっていると繰り返したのだ。
このためUKIPは繰り返し「人種差別」と非難され、ファラージ氏はこれに「ひどく不当だ」と反論を繰り返した。ファラージ氏はかねてから戦略的に、UKIPを極右勢力から遠ざけていたし、極右政党「イギリス国民党」(BNP)出身者の入党を綱領で禁止していたからだ。
それよりむしろ、現状に不満を抱く裕福な高齢者や、労働者からの支持をファラージ氏は期待していた。移民急増による急激な社会変化に違和感を覚えている裕福な中産階級の高齢者だけでなく、職業政治家たちに無視され職にあぶれた労働者階級の有権者からも支持されたいと。
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移民の写真を前に「限界点 EUは全員を落胆させた」と書かれたポスターの前に立つファラージ氏。移民問題を強調したUKIPの戦略は物議をかもしたが、国民投票の結果を左右した。
UKIPやファラージ氏は常に、声高な抗議にさらされた。2013年にはエジンバラで、スコットランドの国民主義勢力から逃れるためにパブに避難する羽目になったし、2015年にはロンドンで「多様性」活動家たちから逃げるためにやはりパブに避難した。それでもUKIPの影響力は拡大し続けた。
2013年の地方選ではイングランドで140議席を獲得した。候補者を出した選挙区での平均得票率は25%に上った。昨年の地方選では161議席に増やした。
さらに英国の欧州議会選では得票率27.5%で圧勝。保守党を離脱したダグラス・カースウェル下院議員がUKIP候補として補選に勝利し、UKIP初の下院議席を獲得して、党は一気に勢いに乗った。同様に保守党から離脱したマーク・レックレス議員もUKIP候補として下院に当選した。
しかし2015年になるとUKIP支持率は一貫して下がり続け、ファラージ氏はどうもいつになく元気がないようだと多くの政治評論家が指摘し始めた。職務遂行に健康面で問題はないのかと。
このためファラージ氏は、選挙戦冒頭から実は「ひどい痛み」を抱えていたのだと公表した。飛行機事故以来の慢性腰痛を放置していたからというのが理由だった。理学療法で元気は回復したものの、一部に思われていたほどの影響力は発揮しないまま終わった。
5月7日の投票日前、ファラージ氏はUKIPは「自分自身よりはるかに大事なもの」だと発言。さらに自分は比例代表制に「全面的に改宗している」と述べ、UKIPは苦戦するだろうと示唆した。
この時の総選挙でUKIPは結局、得票数400万票弱で得票率13%にもかかわらず、当選したのは再選のダグラス・カースウェル議員のみ。マーク・レックレス議員は議席を失った。
そして南サネット選挙区で初当選をねらったファラージ氏も、保守党候補に3000票及ばず、落選した。
選挙期間中、もし自分が落選したら党首を「首になる」と宣言していたため、投票日の翌朝には党首辞任を発表した。しかし同時に、夏休みをとってから党首選に再出馬する可能性は否定せず、去就に含みを持たせた。
そしてその後、自分に党首として残ってほしいと願うUKIP党員からの「圧倒的な」声に「説得され」、考えを改め、党首として残ることにしたと前言を撤回。特に、国民投票に向けて闘い続けたいのだと強調した。
党首続投の判断は吉と出た。同じようにEU離脱を支持する保守党の多くは、ファラージ氏を遠ざけ、関わろうとしなかったが、国民投票の運動でファラージ氏は中心的な存在となった。
移民問題を強調するファラージ氏の戦い方を嫌う人たちもいた。移民の大行列の前に「限界点」という文字を並べたUKIPのポスターは、大勢を怒らせた。しかし移民問題が主要争点のひとつになったのは、かなりの部分がファラージ氏の手腕によるものだった。
「6月23日をこの国の独立記念日に」
国民投票の衝撃的な結果が正式に発表されるより先に、ファラージ氏は24日早朝、感極まった様子で演説をした。誰よりも早い勝利演説だった。
今回あらためて党首を辞任すると発表したファラージ氏は、今回はもう戻らないと強調し、後任を全面的に支援すると約束している。とは言うものの、UKIP内で大きな存在であり続けることには変わらず、欧州議会議員の任期が続く間はブリュッセルで、英国のEU離脱プロセスが「後退したり弱腰になったりしないよう」、交渉の進捗を「鷹の目」で注視し続けると述べた。
さらにファラージ氏は、もし政府がEU離脱を完全に履行しないならば、2020年の総選挙で何があるか分からないから注意するようにと、他の政党に警告したのだった。
EU離脱推進のファラージ氏、党首辞任 「自分の生活を」
<ナイジェル・ファラージ氏、発言の数々>
・「最初は無視され、次に笑われ、その次には戦いを挑まれ、ついにはこちらが勝つ」(マハトマ・ガンジーの言葉になぞらえて、2015年4月にUKIPの選挙見通しを聞かれて)
・「ここまで来るのに6時間15分かかった。(中略)門戸開放の移民政策と、高速道路M4が前ほど使い勝手がよくないせいで」(2014年12月、西部ウェールズでの会合に遅刻して)
・「EUには終わってほしいが、民主的に終わってもらいたい。民主的に終わらないなら、とても残念な形で終わるだろうと心配だ」(2014年4月、欧州議会選前の議論で当時のニック・クレッグ自由民主党党首に)
・「失礼なことは言いたくないが。(中略) あなたは誰なんだ? あなたのことなど知らない。欧州の誰一人としてあなたを知らない」(2010年2月、欧州議会でヘルマン・ヴァン・ロンプイ欧州理事会議長に)
(英語記事 The Nigel Farage story)