「何があっても」……英首相の私信も公開 英イラク調査委の報告書

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2005年にイラク・バスラで英軍部隊を前にあいさつしたブレア英首相(当時)
英国のイラク戦争参戦の経緯を調べてきた独立調査委員会(チルコット委員会)は6日、7年間の調査にもとづく報告書を発表し、当時のブレア政権がイラクのサダム・フセイン大統領の脅威を過剰に表現し、外交努力を尽くさないまま軍事行動を開始したという見解を示した。またブレア首相が2002年の時点でブッシュ米大統領に「何があっても」米国を支持すると約束した私信31点など、これまで未公開だった資料も合わせて公開した。
ブレアーブッシュ書簡
チルコット委員会は、これまで機密指定されていた政府文書も数多く公表した。そこに含まれるブレア首相がブッシュ大統領に送った私信31点からは、フセイン大統領打倒を目指す英米両政府の共同歩調が、2001年9月11日の米同時多発テロから間もなく形成されていった様子がうかがえる。
同時多発テロの翌日、ブレア氏はブッシュ氏に、ハイジャック犯に正義の裁きを加えるため協力すると書き送り、「この悪事の次の段階」を見越している。ブレア氏はさらに書簡で、「生物化学兵器などの大量破壊兵器」制御に必要となる対応の内容に「ひるむ」者もいるだろうが、「今後さらにひどい大惨事が起きる日まで対応を延期するよりは、今のうちに行動しておいて、正当な根拠を示して説明する方がいい」と書いている。
2003年のブレア氏とブッシュ氏
公開された書簡によると、ブレア氏とブッシュ氏は2001年12月の時点ですでに、フセイン大統領排除をおおっぴらに相談していた。当時の米英はまだ、アフガニスタンでの軍事作戦を開始したばかりだった。
「アフガニスタンでどう終わるかは、第2フェーズにとって大事だ。人道支援を提供して、国民に新しい希望を与え、前より良い国にしてアフガニスタンを後にすれば、軍事だけでなく道徳上も勝ったことになる。そうすれば有志連合は、他地域での活動も支援してくれる」とブレア氏は書いている。
「体制転換を良い意味の言葉にすれば、イラクについて議論しやすくなる」
イラク侵攻開始8カ月前の2002年7月には、ブレア氏は「何があっても」ブッシュ氏を支援すると大統領に書いた。その上でブレア氏は、もっと幅広い軍事連合を望むなら国連の後押しが必要で、中東和平を前進させ、米英とアラブ諸国の世論を動かさなくてはならないと助言している。
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2002年7月28日の書簡でブレア氏はブッシュ氏に「何があっても、僕は君を支える」と書いた。
首相は「秘密」「私信」の印がついたこの書簡を、当時のジャック・ストロー外相には見せたものの、ジェフ・フーン国防相には見せなかった。この判断についてチルコット委員長は、ブレア政権はこれほど重要な政策を閣議を通さずに決めていたと痛烈に批判した。
不正確な情報
当時は「フセイン政権の大量破壊兵器」がイラク戦争開戦の理由に使われた。しかしチルコット報告書は、政府が入手していた情報は、フセイン政権が生物化学兵器の製造を続けていると、「疑いの余地なく」証明していないと、他の調査報告書と同様に、裏付け不足を批判している。
ブレア氏は2002年9月に、フセイン大統領は命令から45分以内に発射できる生物化学兵器を保有していると発言した。しかしチルコット委員長は、「あの声明、および同日に発表された資料集は、正当な裏付けがないまま、強い確信をもってイラクの能力を判断している」と指摘した。
開戦前夜にブレア氏は下院に対して、テロ組織が大量破壊兵器を入手している可能性は「英国と英国の国家安全保障にとって、現実でそこにある危険だ」と話していた。
しかしチルコット委員長は、「軍事行動は英国と英国の国益に対するアルカイダの脅威を拡大させると、ブレア氏は警告を受けていた。また侵攻すれば、イラクの武器や攻撃能力がテロリストに渡りかねないという警告も受けていた」と批判する。
戦争の合法性
法務長官だったゴールドスミス卿は、軍事行動について国連から明確な承認を取り付けるようブレア氏に助言していた。しかし外交努力が失敗すると、1991年の湾岸戦争に遡るイラク関連の国連決議を根拠にすれば介入は合法だと説明した。
チルコット委員長は、報告書はイラク戦争の合法性を判断するものではないと言明。調査に協力した人たちは宣誓証言したわけではないし、報告書の内容に法的拘束力はないと指摘した。
しかしその上で委員長は、「英国の軍事行動には法的根拠があるという判断だったが、その判断にいたる状況は満足とは程遠いものだった」と批判し、ゴールドスミス卿はどのようにして意見を変えたのか書面で明示すべきだったと報告書で書いた。
英国は2003年3月の時点で軍事行動を承認する国連決議の成立を求めて運動したが、必要な支持が得られなかった。このときブレア首相とストロー外相は、国連の「膠着」はフランスのせいだと言い、英国政府は「国連安保理の権威を保つため」「国際社会を代表して行動している」と主張した。
しかしチルコット委員長は、実際はその真逆だったと結論する。
「軍事行動に過半数の支持を取り付けられなかった以上、英国はむしろ国連安保理の権威を損ねていたのだと判断する」と委員長は述べた。
戦後計画とその後
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2003年3月にイラク・バスラから避難する住民たち
チルコット報告のかなりの部分は、戦後イラク統治の計画と、イラク南部バスラ周辺の広大な地域の治安維持を任された英軍の装備について触れている。戦後イラクの統治は当初、米軍主導の有志連合による暫定行政当局(CPA)が担当していた。
委員会の調査に応じた元閣僚や軍司令官の多くは、国防省が必要な兵站(へいたん)や装備を提供しなかったと強く批判している。また重要部分において英国が全般的に米国の言いなりになっていたという。
チルコット委員長は、「即席爆発装置の危険に国防省の反応は遅く、パトロール任務用に中型装甲車の配備が遅れたことは容認すべきではなかった」と批判。「これほどの能力の欠落を特定し指摘する責任が、国防省のどの人物や部局にあったのかははっきりしない。しかし、はっきりしているべきだった」。
ブレア氏は委員会の調査に対して、イラク侵攻後にどのような困難に直面するか事前に予測するのは難しかったと述べている。しかし委員会は、「国内対立」や地域不安定、イラク国内のアルカイダの活動のリスクはいずれも、「進攻前に明確に特定されていた」と指摘する。
「サダム・フセイン以降のイラクでの計画と準備は、まったく不十分だった。政府は当初に掲げた目的を実現できなかった」
報告書は、フセイン大統領追放という当初の作戦は成功したと認め、侵攻当時とその後の兵士や民間人の「素晴らしい勇気」は称えている。しかし英国の軍事的役割は「成功とは程遠いもので」、英国部隊への攻撃を止めさせるためにバスラの地元民兵組織と交渉し、攻撃中止の交換条件として捕虜にした民兵を釈放しなくてはならなかったのは、「屈辱的だった」と報告書は指摘している。
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7年かけてまとめられたチルコット報告書は260万語、12巻に及ぶ