「世界を変えた1週間」 46年前の中国は米大統領にどう備えたか

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一時は危ぶまれたものの、ドナルド・トランプ米大統領と北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長は12日、シンガポールで首脳会談に臨んだ。敵同士だった国が顔を合わせる史上最も重要な会談の一つとなるはずで、1972年2月にニクソン大統領が中国を訪問したときを彷彿(ほうふつ)とさせる。

類似点は多い。当時、文化大革命の混乱のさなかにあった中国は世界から完全に孤立化しており、米国とは20年以上にわたって正式な国交がなかった。金委員長が自国民に対して、米国と平和的に共存する必要があると言っているのと同じように、中国政府は、第3の世界革命の中心地に米国人を迎え入れなくてはならないと、人々を説得する必要があった。

BBC編集者のユーウェン・ウー当時、は年若い生徒として中国で暮らしていた。「世界を変えた一週間」とも呼ばれるニクソン大統領の訪問を待ち受けた中国国内はどんな様子だったのか、振り返ってもらった。

1971年7月15日午後7時、米カリフォルニア州にあるNBCテレビのスタジオに入ったリチャード・ニクソン大統領は、中国の周恩来首相の招待を受け入れ、「両国関係の正常化を目指す」と世界に発表した。

それと全く同時、翌16日午前10時になっていた中国・北京では、国営テレビが同じ発表をした。報道は、中華人民共和国の訪問を最初に希望したのはニクソン大統領の方だと念押しした。

世界に大きな驚きの波紋を広げたニクソン氏の緊張緩和を目指す訪中が、このように慎重に振り付けられた発表だったことは、両国が念入りな事前準備を進めていたことを物語っている。

毛沢東の戦略的な計算

当時、中国とソ連との関係が悪化するなか、太平洋の向こう側にいる「敵」よりも、国境の北にある同盟国の方がより大きな脅威だと中国は認識し、米大統領を招待することを決めた。米国に友好の手を差し伸べて、目前の緊張関係で優位に立つことには、喫緊の戦略的重要性があった。

中国のこの認識は、1979年の米国との正式な外交関係樹立につながるさまざまな出来事を生んだ。

まず、毛沢東は1970年に米国人ジャーナリストのエドガー・スノウに対し、米国との関係改善はやぶさかではないとの姿勢を示した。1971年4月には、米国の卓球チームを中国に招いた。

数カ月後、ヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官(国家安全保障担当)が極秘に北京を訪問した際に、ニクソン大統領の訪中を提案した。

当時の中国も現在の北朝鮮も同様、目的がいったん設定されれば、政治宣伝や治安、大衆動員を含めた国家権力のさまざまな仕組みが首脳会談を成功させるために動きだした。

筆者は当時15歳で、北京にある中学校に通っていた。実際の訪中についてはあまり覚えていない。同級生たちに聞いてみても、ぼんやりとした記憶しかないと話す。

しかし、わたしたち全員が一つ覚えていたのは、やって来る米国人たちにどう接すべきか、政府が掲げた「へりくだるのでもなく傲慢(ごうまん)でもなく、冷たくも熱くもなく」という標語だ。

これを実行に移した人々の興味深く、時には大笑いするような多くのエピソードを私が知ったのは、何年も後のことだった。

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Image caption 北京の学校では、米国からの訪問客から難しい質問を受けたら逃げ出してもよいと生徒たちに指導した

「面前」で罵倒しない

国営放送のトップを務めていたヤン・ジェンカン氏は、「中国の対米姿勢について変更はない」という報道の基本方針があったと話す。

その意味は、「我々にとっては依然として敵だが、ニクソン大統領は客人なので、『くたばれニクソン』とか『くたばれ米帝国主義者』とか面前で叫んだりしてはいけない」ということだ。

その結果、ニクソン大統領が訪中している間は、ラジオやテレビのニュースで、「米帝国主義者」は「米合衆国」に変更された。反米的な番組を製作するのは良くても、過剰な内容はいけないとされた。

中国は、ニクソン訪中が米国内でどう見られているのかや、ニクソン大統領が北京で何をしているか生放送で米国民に伝えたいと望むだろうことも理解していた。米側の技術者たちは中継局を設置したいと希望したが、中国政府は許可しなかった。

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Image caption 米国の訪中団の前で中国の体操チームが実演した

妥協策として、周首相の許可の下、中国が米国の中継設備を購入した上で再び米側に貸与し、中国から夕方のニュースの生中継をさせるという方法がとられた。

一に警備、二に警備、また警備

訪中時の警備は大きな懸念だった。中国は訪中時に予期しないようなことが起きず、順調に進行するようにする必要があった。秘密のベールに包まれた自国について、興味津々の米国人たちがあまり知りすぎるのも避けたいと考えていた。

訪中が近づくにつれ、首都では大規模な治安作戦が実施され、多くの人が「階級の敵」として自宅軟禁されたり、監視対象になった。

北京では、学校や職場の拘束時間が延長され、午後8時前に出歩く人の数を制限する措置がとられたという話もある。

筆者の学校では、街中でトラブルが起きたりしないよう、教員がそれぞれのクラスに気を配り、統率するよう求められたと、私の教師は振り返る。先生によると、別のクラスのある生徒はナイフを所持していたという理由だけで逮捕されたという。

一部の生徒は、「林彪(りんぴょう)元帥はどこにいるのか」などと言った微妙な問題に触れるような質問をする可能性がある外国の記者たちにどう対応すべきか指示を受けた。

共産党のトップを務め、一時は毛沢東の後継者とされた林彪は中国から亡命しようとしたものの、飛行機が墜落しモンゴルで死亡したとされる。学生たちはこれは「依然として国家機密で外国人に明かすようなことではない」と教えられた。

このほかにも、「十分な食べ物や衣服がありますか」や、「アメリカは好き?」といった質問への準備をさせられた。

生徒たちは、質問の意味を理解できなかったふりをするか、ただその場から逃げてしまうというのも良しとされた。

万里の長城には偽の観光客

友好的で秩序立った雰囲気を作り出すため、各地区は入念に掃除され、不適切な標語や引用句は街中から取り除かれ、訪中にふさわしい言葉が代わりに掲げられた。

店の棚が空になっていないよう、何台ものトラックに満載された商品が運び込まれた。いつもより商品の種類も多くなった。

ニクソン訪中団と「一般」中国人が触れ合う機会も、多くは中国政府がお膳立てしていたようだ。

同行した記者団の一人だった米紙ニューヨーク・タイムズのマックス・フランケル記者は、訪中に関する報道で1973年のピューリツァー賞を受賞した。

フランケル記者は、2月24日にニクソン大統領が万里の長城を訪れた際のことをこう語る。「万里の長城の上には、『典型的な』観光客の集団がカメラの前で礼儀正しくあいさつし、きれいな服装をした若い女性が特別に歓迎の握手の手を差し伸べるために都合良くいたかのように、彼(ニクソン大統領)が進むルートに戦略的に配置されていた」。

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Image caption 万里の長城を訪問したときニクソン大統領は、「中国が過去どんなだったか、また将来どうなれるのかを示す象徴だ」と述べた

「観光客たち」は実際のところ、この政治的な任務のためだけに選ばれて来ていた。

2008年、ウェブサイトのフィーニックス・ニュースに文章を寄せた男性が、当時小さな工場で働いていたところ、この任務を任せられる政治的に信頼できる10人を選び出すよう指示を受けたことを明かした。良い服装をするよう求められ、仕事着はだめだと言われたという。万里の長城を観光に来たかのように振る舞い、米国からの要人たちからは十分な距離を保ち、何を聞かれて理解できないふりをするよう指示されたという。

画期的な進歩

ニクソン大統領らが万里の長城を訪問した前日は激しく雪が降っていた。何千もの北京市民や軍関係者が夜を徹して道の除雪をし、ニクソン氏らが車で通れるようにした。このことは訪中団に非常に感謝されたが、ニクソン大統領に大きな印象を残したのは万里の長城そのもので、同氏は「中国が過去どんなだったか、また将来どうなれるのかを示す象徴だ」と述べた。

ニクソン大統領は記者らや中国側に対し、「長城を前にして、人々の間にどんな壁もあってほしくないと思う」と語った。

1972年以降、米中関係は友好と緊張を繰り返してきたが、ニクソン大統領の歴史的な訪問が、その後の両国関係が築かれ鍛えられることを可能にしたと言えるだろう。

今はトランプ氏と金委員長との会談に注目が集まっている。約60年にわたる朝鮮半島での敵対関係を終わらせ、平和と安定の始まりにつながることへの期待と共に。

(英語記事 'The week that changed the world': How China prepared for Nixon

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