33年後のチェルノブイリ訪問 にぎわう立ち入り禁止区域、消えない不安

1986年にチェルノブイリの原子力発電所が爆発して以来、4000平方キロメートル以上に及ぶ立ち入り禁止区域が設けられ、忘れ去られた。

しかし、そこにも変化が起きようとしている。立ち入り禁止区域に人は戻り、幼稚園もにぎわっている。放射による健康被害よりも放射への不安による健康被害が深刻だと指摘する専門家の声もある。BBCのヴィクトリア・ジル科学担当編集委員が、1週間にわたこの地域を訪れた。

「ここで人生の半分以上を過ごしてきた」

ウクライナ出身の科学者ゲナディー・ラプテフさんはこう言い、切ないような複雑な表情でほほ笑んだ。私たちは、チェルノブイリ原発の冷却池があった場所に立っていた。

「解体作業者として仕事を始めたとき、自分はたった25歳だった。それが今は、もうすぐ60だ」

史上最悪の原発事故を受け、膨大で危険な除染作業に何千人もの解体作業者が駆り出された。

大柄なラプテフさんは、粉じんを貯めるプラットフォームを見せてくれた。コーヒーテーブルほどの大きさだ。この貯水池はかつては近隣の川から水をくみ上げていたが、2014年にポンプの動力が切断されたため、今は乾いている。事故後に残った3つの原子炉が停止されてから、14年後のことだった。

粉じんの放射能汚染分析は、この見捨てられた広大な土地で長年続く調査のごく一部に過ぎない。事故で汚染されたこの土地は、巨大な実験室と化した。自然環境がどのように原発事故から回復するのか解明しようと、何百人もの科学者が調査に取り組んできた。

実験が世界的な大惨事に

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爆発の起きた4号炉は現在、「新安全閉じ込め構造物」の中にある

1986年4月26日午前1時23分、チェルノブイリ原子力発電所第4原子炉で、エンジニアがシステムの一部電源を止めた。停電時に何が起きるかを調べるための重要なテストだった。

しかし、原子炉がこの時すでに不安定な状態にあったことを、技師たちは知らなかった。

電源停止により、原子炉に冷却水を流し込むタービンの速度が遅くなった。少ない水が大量の蒸気となり、原子炉内の圧力を上げた。オペレーターが事態に気付き原子炉を止めようとした時には、もう遅かった。

蒸気爆発が原子炉のふたを吹き飛ばし、原子核が大気にさらされた。発電所内にいた2人が死亡し、10日間にわたって続いた火事で、放射線を放つ煙と粉じんが風に飛ばされ欧州全土に散らばった。

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1986年に、原子炉の周りでサンプルの土壌を採取するラプテフさん(右)

死の煙が巻き上がる中、初動の救急隊が現場に飛び込んだ。急性放射線症候群と診断された救急隊員134人のうち、28人が数カ月以内に亡くなった。その後も、少なくとも19人が死亡した。

環境科学者のラプテフさんは、避難指示からわずか3カ月後に、被害区域での調査を始めた。

「毎日(ウクライナの首都)キエフからヘリコプターでここに来て、水や土のサンプルを集めていた」とラプテフさんは言う。

「最初の立ち入り禁止区域の地図を作るために汚染の広がりを理解することが、当時の重要事項だった」

立ち入り禁止区域は現在、ウクライナやベラルーシまで広がっている。その広さは4000平方キロメートル以上。ロンドンの2倍以上だ。原発から半径30キロメートル以内にあったコミュニティーには避難指示が出され、町は見捨てられた。誰もそこに戻って住むことは許されなかった。

ただし、同じ立ち入り禁止区域でも、その外縁にある目立たない地域では実は、事故の数カ月後に住民の帰還がひそかに許された。

「30キロ圏」とは違い、こうした半ば見捨てられた地域には立ち入りを規制する検問所は作られなかった。

人口2500人以上が住むナロディチも、この外縁部にある。

公式には汚染区域とされるこの町は、様々の厳しいルールの対象だ。立ち入り禁止区域の土壌では作物を作ることが許されず、土地開発もしてはいけない。

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ナロディチは、立ち入り禁止区域の中にある汚染された町の1つだ

しかし、ウクライナのこの地域はもはや、「汚染」と「クリーン」に明確に2分するのが難しくなっている。

調査によればチェルノブイリ原発事故の影響は想像以上に複雑だ。ナロディチでは本来、あれもこれも「触るべからず」の規則が厳格に適用されるはずだが、実際の風景はそれよりもはるかに奇妙で、それゆえに興味深いものになっている。

もしかすると放射線そのものよりも、放射線への恐怖の方が、ナロディチの住民をはるかに傷つけているかもしれないのだ。

「飛行機内よりも低い放射線」

ラプテフさんの肩越しに原発が見えた。私たちが立っている貯水池の底から1キロも離れていない。日光を浴びて輝いているのは、事故の中心となった第4号炉を覆い隠している「新安全閉じ込め構造物」だ。2016年に建造されたもので、中では33年の時がたった放射線を放つがれきを、ロボットのクレーンが解体している。

ラプテフさんの同僚で英ポーツマス大学のジム・スミス教授は、1990年からチェルノブイリ原発事故の影響について研究している。

下の写真は、スミス教授が被害地域に何度も足を運ぶたびに持参する線量計だ。

線量計は、スミス教授が周囲の環境から受けている放射線を計測してくれる。

1986年の爆発で広がった核燃料の粉じんの原子は自然に分解されるが、その過程で高エネルギーの放射線が放出される。この線量計は私たちが1時間で浴びる放射線を計測する。

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線量計では、人体が1時間に浴びる放射線を計測する

計測結果(マイクロシーベルトという単位で示される)を私が理解するには、その他の「放射性活動」と比較するしかやりようがない。例えばキエフへ向かう飛行機の中では、スミス教授の線量計は1.8マイクロシーベルト毎時を示していた。

チェルノブイリでスミス教授は、「現在の線量は0.6」だと教えてくれた。

「ここへ来るまでの飛行機内と比べると、3分の1だ」

あまりにも有名な原発が見える状況の数字で、私は信じられなかった。しかし教授が説明するには、私たちは放射性の惑星で、自然に発生した放射線に囲まれて暮らしているのだという。

「太陽光から、食べ物から、大地から放射線が出ている」とスミス教授は教えてくれた。だからこそ高度1万2000メートルの、大気による防御が薄い飛行機の中では、より高い放射線を浴びるのだ。

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チェルノブイリ原発の内部。13.5マイクロシーベルト毎時

「確かに立ち入り禁止区域は汚染されている。でもそれを世界の放射線マップに配置すると、小さな『ホットスポット』だけが目立つ」

「自然の放射線はどこにでもある。国ごとに、場所ごとに異なる数値を示す。世界には、自然発生の放射線が(チェルノブイリの)立ち入り禁止区域の大半よりも高い地域がある」

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左上は立ち入り禁止区域の場所。ベラルーシに近いウクライナ北部にある。左下は事故当時のチェルノブイリ原発の写真。右は現在の立ち入り禁止区域の放射線量を表したもの。単位はマイクロシーベルト毎時

「ホットスポットには長居したくない」

立ち入り禁止区域の境界線は変わっていないが、その風景は見分けが付かないほどに変わってしまっている。人間が強制退去させられた後には、自然が入り込んできた。建物や農家、村に野生が入り込んでいる風景は、まるで世界の終わりの後のような雰囲気だ。

スミス教授とそのチームはここでサンプル採取に加え、カメラと録音機器の設置に数日を通夜した。住民のいなくなった場所でどのように野生動物が暮らしているのか、そして放射線がどのように影響しているのかを調べるためだ。

立ち入り禁止区域へ入って2日目、私はチームに同伴して「赤い森」に入った。この森には事故後の風向きの影響で大量の放射性物質が降り注ぎ、区域の中でもホットスポットになっている。

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チェルノブイリ原発から4キロ離れた「赤い森」。35~40マイクロシーベルト毎時

服を汚染されないよう、私たちは防じんスーツを身につけた。

森の中で、スミス教授の線量計は35マイクロシーベルト毎時を計測した。あの貯水池の数値のほぼ60倍に値する。

教授は「ホットスポットには長居したくない」と言った。

チームは速やかにサンプルの土を集め、写真を撮り、車へと戻った。

立ち入り禁止区域で生きるウマ

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山火事の被害を抑えるため、モウコノウマの再野生化がすすめられている

原発から10キロほど離れたブラヤコフカの村にも、もはや人間は住んでいない。ここでの調査方法はホットスポットとはかなり異なる。スミス教授のチームはたっぷりと時間を使って周辺を探索した。線量計の数値は1マイクロシーベルト毎時で、ここもやはり飛行機の中よりも低かった。

朽ちかけの、それでも色鮮やかな小さな木造住宅の中で、椅子にかけられたコートを見つけた。30年分のほこりをかぶったそれは、事故によって住民たちが突然失ったもの、その悲しい現実を如実に示していた。

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チェルノブイリから西に12キロ離れたブラヤコフカ。1マイクロシーベルト毎時

一方で、住民たちが残した農地や庭園の跡では、野生動物が豊かな暮らしを築き上げていた。

長年の研究によって、立ち入り禁止区域の中で最も野生動物が多いのは、住民がいなくなった村の跡だということが分かっている。

ここにはヒグマやオオヤマネコ、イノシシなどが暮らしている。キエフ動物園の研究者マリナ・シュクフィリア博士は、人間がいなくなった土地で暮らす大型ほ乳類を追跡・調査している。

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立ち入り禁止区域に設置したカメラに、オオヤマネコが写っていた

最も汚染がひどい地域の鳥はDNAが損傷していると示す研究もある。その一方で、シュクフィリア博士の研究によると、立ち入り禁止区域のほとんどで野生動物が大いに繁殖している。

特に、チェルノブイリに生息するオオカミの例は衝撃的だという。

「15年の調査によって、オオカミの生態についてたくさんの情報を集めることができた。チェルノブイリのオオカミは、ウクライナのオオカミでも特に天然な状態にある」

この場合の「天然」とは、オオカミの食料に「人間の食べ物」がほとんど入っていないことを意味する。

「オオカミは通常、人間の居住地の近くにいる。そこでは家畜や穀物、ごみ、ペットまでが食料になる」

しかしチェルノブイリでは、オオカミは他の野生動物を捕食している。シカだけでなく、時には魚も捕るという。

記録用のカメラは、肉食だけでなく、穏やかな食生活の様子も捉えていた。かつて人間が果樹園にしていた場所では、オオカミが果物を採って食べていた。

一方で、厳密に言えば本来この場所にいてはならない動物も、この土地に生息している。

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チェルノブイリでは、オオカミが繁殖している

ウクライナの動物学者は1998年、チェルノブイリの立ち入り禁止区域に絶滅危惧種のモウコノウマ30頭を解き放ち、再野生化を図った。モウコノウマに繁茂した草を食べてもらい、山火事の危険性を下げるのが目的だった。

現在はウクライナからベラルーシにかけ、約60頭が群を形成している。

モウコノウマはかつてモンゴル高原に生息していた。見捨てられた建物があちこちに散らばる森は、必ずしもモウコノウマにとって理想の生息環境ではない。

しかしシュクフィリア博士は、「それでもモウコノウマは森をうまく使って生きている」と話す。

「古い納屋や建物にカメラを設置しておくと、モウコノウマが蚊や暑さを避けるために入ってくるのが見られる」

「中には横たわって寝ているものもいる。うまくこの場所に適応している」

「サクランボのウオカはいかが?」

人間がいなくなった後、自然保護区となりつつある地域で最も栄えているのは野生動物だが、全ての村が動物に占拠されたわけではない。

半径30キロメートルの立ち入り禁止区域の奥深くに、今も暮らしている人たちがいる。

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マリアさん(右)は、立ち入り禁止区域になった自宅に自主的に戻り、生活している

チェルノブイリに入って4日目、私たちはマリアさんの家を訪ねた。私たちが到着した時、マリアさんは庭にいた。たどたどしいウクライナ語で自己紹介しようとすると、彼女はそれをさえぎり、頬へのキスとハグで出迎えてくれた。

この日はマリアさんの78歳の誕生日だった。私たちを迎えてくれたマリアさんは、お祝いの朝ごはんを用意していた。

スミス教授と同僚のマイクさん、通訳のデニスさん、そして私は、果樹の下に置かれた木のテーブルを囲んだ。

素晴らしく晴れた日で、朝9時でも十分に暖かかった。マリアさんは料理を並べ始めた。ブタの脂身、魚、薄切りのソーセージ、畑で育てた茹でたてのポテト――それから、2本のスピリッツらしき瓶が出てきた。片方の中身は透明で、もう片方は暗い赤色だった。

「こっちのウオッカが好みでなければ、サクランボのウオツカはいかが。私が作ったの」とマリアさんは言った。

マリアさんは、たった15人の住民が暮らす小さなコミュニティーにいる。住民はみな、1986年に立ち入り禁止区域へ入り、自宅を取り戻した。

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標識には、原発事故によって住民のいなくなった町の名前が書かれている

ここから退去させられた世帯のほとんどは、近郊の都市や町にアパートを与えられた。しかしマリアさんと母親にとって、この庭に囲まれたコテージこそが我が家だった。

「帰ってくることは許されていなかったけど、私は母に従いました」とマリアさんは語った。

「母はその時88歳で、ずっと『私は行く。私は行く』と繰り返していました。私はただ、母に着いてきただけです」

立ち入り禁止区域には約200人が自主的に帰還している。高齢化が進み、他の地域から寸断されているため、生活は苦しいとマリアさんは言う。

「私たちはみんなとても年を取った。毎日をあるがままに受け入れています」

「子どもがキエフから訪ねてきたときは生きている実感があるけれど、それ以外は面白いことはありません。でもここが私たちの土地、ふるさとです。かけがえのない場所です」

マリアさんの携帯電話が鳴った。バブーシュカ(スカーフ)を被った小柄なマリアさんは、立ち入り禁止区域の庭に立って娘との電話を手早く終わらせようとしている。BBCからお客さんが来ているから、忙しいのよ! そう言うマリアさんの姿にふと、これはなんと奇妙な状況だろうと私は呆然とした。

人里から離れているこのコミュニティーだが、その分だけ人の距離が近い。

私たちがマリアさんの庭に座って(何度も注がれるサクランボのウオッカを飲んで)いると、近所の人が誕生日プレゼントを持ってきた。その人は庭の入り口の近くのベンチに座った。そう遠くまで歩けないのだという。

それでも、自主帰還者は全体のごく一部だ。あまりにいきなり家を失ったほとんどの人は、帰れる見込みもない。

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プリピャチには事故当時、5万人が暮らしていた

そのほとんどはチェルノブイリ原発の従業員用に作られた計画都市、プリピャチに住んでいた。ソビエト連邦時代の夢の町ともいえる場所だ。

原発から数キロしか離れていないこの町では、一晩で5万人が退去させられ、誰一人として帰還を許されなかった。現在のプリピャチは、典型的な20世紀のゴーストタウンだ。

しかし近年になり、プリピャチは短期間の滞在なら安全ではないかと言われ、今ではウクライナの最もホットな観光地の一つとなっている。昨年は推計6万人が無残な廃墟の様子を見ようと、立ち入り禁止区域を訪れた。

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立ち入り禁止区域では観光が始まっている

チェルノブイリにまつわる暗澹(あんたん)たる悪名に乗じて、ソーシャルメディアで悪目立ちしようとする人たちもいる。インスタグラムで「#chernobyl(チェルノブイリ)」というハッシュタグを検索すれば、面白い風景や観光写真に混じって、正体不明の人たちがガスマスクを付けたり気味の悪い人形を持ち上げたりしている、不気味なコスプレ写真が見つかるだろう。

「チェルノブイリはひどい場所ではないと伝えてほしい」

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チェルノブイリの町は、原発から15キロ離れている。0.1マイクロシーベルト毎時

まぎらわしいことに、チェルノブイリの町そのものは、プリピャチよりも原発からずっと離れている。そのため、チェルノブイリの町は、プリピャチより汚染度が低い地域にある。

原発の解体作業員、科学者、観光客が滞在するチェルノブイリの町は、比較的人口の多い地域の拠点となっている。

私はラプテフさんとスミス教授、そして調査チームと共に、チェルノブイリの小さなホテルに泊まった。旧ソ連の建物の周りに、不釣合なほど可愛らしい、よく手入れされた庭が広がっていた。庭は、ホテルを経営するイリナさんが世話をしていた。イリナさんは3カ月だけここにとどまっていて、その後は同僚に代わるという。住民は一定期間しか、チェルノブイリに住むことが許されない。

ホテルでの2日目、紅茶を飲みながら、イリナさんは事故当時の思い出を話してくれた。ラプテフさんの通訳によると当時、イリナさんは祖母と共にプリピャチに住んでいたという。

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プリピャチの見捨てられた遊園地は観光スポットになっている

原発事故の翌日の4月27日、町は避難対象となり、住民は直ちに退去するよう命令された。住民は町と原発から離れるため、バスに乗ろうと行列した。イリナさんは当時、祖母のアパートに戻ろうとしているところだった。

「祖母の友人が家畜を運ぶワゴンを運転していました。家畜を連れ出そうとしていたんです。祖母はその友人に、私を乗せてくれないかと頼んで、私はワゴンによじ登りました」

「何が起きているのか、その時は知りませんでした」

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記者たちが宿泊したチェルノブイリのホテル

イリナさんもマリアさんと同様、立ち入り禁止区域に戻らなくてはと思ったが、結局は二度とプリピャチに戻らなかった。今さら戻って様子を見たりしたら、ひどく動揺してしまうに違いない。

それでもイリナさんは、チェルノブイリのホテルの庭で花を育てる生活に誇りを抱いている。

「来てくれる人のために、できるだけ可愛くしています。そうすれば皆さんそれぞれ地元に戻って、チェルノブイリはそんなに悪いところじゃないと言ってくれるかもしれない」

「チェルノブイリの住民であることを忘れてしまった」

立ち入り禁止区域でラプテフさんは33年間、作業を続けた。その仕事のひとつの帰結が、立ち入り禁止区域外にあるナロディチの学校で今年2月に開かれた会議だったのかもしれない。

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チェルノブイリから90キロ離れたナロディチ。0.12マイクロシーベルト毎時

会議には科学者のほか、地元の住民、医療専門家、立ち入り禁止区域を管理する政府当局者などが参加し、この地域の将来をどう変えていくかを協議した。

立ち入り禁止区域が設定されてから初めて、その境界が変更されようとしている。30年にわたる調査の結果、区域のほとんどが食料生産や土地開発において安全だと結論付けられた。ナロディチは、汚染度の極めて低い地域のひとつだ。

ラプテフさんとスミス教授もこの会議で発表した。その前に、私がこの町の幼稚園を訪ねたところ、子どもたちは日差しの下、屋外で遊んでいた。

虹色に塗られた柵に囲まれた園庭は、すぐ隣で建築途中のままになっている灰色の集合住宅と奇妙なコントラストを作り出していた。

事故の前、この幼稚園には360人の園児が通っていた。園長のタチアナ・クラフチェンコさんは終始優しい笑顔を浮かべながら、明るいピンク色のコートを着て私を出迎えた。

クラフチェンコさんは原発事故による避難の様子を覚えていた。

「園児たちは先生と一緒に『クリーンゾーン』へと避難しました。3カ月後に町に戻ったときには25人しか子どもがいませんでした。次第に住民が戻ってきて、子どもが生まれ、幼稚園もにぎわうようになりました。今では130人います」

クラフチェンコさんは、自分のコミュニティーが立ち入り禁止区域にあることをほとんど思い出さないという。

「チェルノブイリの住民であることを忘れています。他にも問題があるので」

「仕事がないので、園児の親たちの半分が失業しています。ここに何かを築ければいいのですが……私たちのコミュニティーが花開くための何かを」

「地図を書き直す時が来たのかもしれない」

会議の話に戻ろう。ラプテフさんは赤いふちの眼鏡越しに協議に集中していた。話し合いは長引いた。

コミュニティーの住民の多くは、クラフチェンコさんと同じ考えのようだった。つまり、この町の規制が解かれるべき時が来たのだと。

しかし、判断を誤れば影響は深刻だ。

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チェルノブイリ原発の内部

事故の影響を受けた人々は政府から賠償金を受け取っている。平均賃金が1カ月当たり400ドル(約4万5000円)のウクライナでも、この町は特に失業率が高い。そのため、賠償金は大事な収入源だ。

そして、今なお大勢が、原発事故による放射能汚染を恐れている。自分たちと子どもたちの健康に、どう影響するのか心配している。

長年の研究の結果、原発事故による長期的な健康への影響を理解し説明するのは、簡単なことではなくなった。むしろ、いらいらするほど複雑だ。

約5000件の甲状腺がん症例(そのほとんどが治療によって治った)が、原発事故による汚染が原因だというのは、判断が確定している。政府は汚染された牛乳がこの地域で販売されるのを、阻止できなかったからだ。その牛乳を飲んだ当時の子どもたちは、原子炉から放出された多量の放射性ヨウ素を摂取してしまった。

加えて多くの人が、自分ががんになったのは、あるいは将来がんになるかもしれないのは、事故による放射能汚染のせいだと疑っている。しかし、証拠はどれも不完全だ。

英マンチェスター大学職業・環境保健センターのリチャード・ウェイクフォード教授は、チェルノブイリと関係する特定の健康被害を示す「信号」を探す研究について、説明してくれた。

他の健康被害要因による「背景雑音」から、この「信号」を選別して特定するのが、この研究の目的だ。ただし、原発事故とほぼ同時期に、ソ連崩壊という大激動があったため、それによる大きい「雑音」がある。それだけに、原発事故の影響とソ連崩壊の影響を区別するのは、とても難しい作業だ。

「甲状腺がんのほかにも、原発事故と関連のあるがんの発症例があるだろうが、大勢の健康に影響を与えた社会経済の大混乱から、原発事故の影響のみを追跡するのはほとんど不可能だった」とウェイクフォード教授は説明する。

そもそも、がんは欧州の人口の3分の1から2分の1に影響を与える。チェルノブイリとの関連を示す「信号」は本当にささやかなものだろう。

先天性疾患を含むさまざまな健康への影響が報告されているが、放射線が原因だと特定できるものがあるかは不透明だ。

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ラプテフさん(右)は調査の一環として、立ち入り禁止区域で穀物を栽培している

インペリアル・コレッジ・ロンドンのジェラルディン・トーマス教授は、「もう一つややこしいのは、この地域でのヨード(ヨウ素)欠乏症との関連だ」と説明する。

非放射性のヨウ素は、牛乳や野菜、海藻などに普通に含まれる。ヨウ素の摂取量が不足すると、脳や脊椎の発育に影響が出る場合がある。

「この地域の環境にそもそもヨウ素が不足していることが、先天性疾患の原因なのかもしれない」とトーマス教授は言う。

こうして、原発事故によるがんの発症数は今なお確定されず、激しい議論の対象になっている。

世界保健機関(WHO)が2006年、原発事故の長期的な影響をまとめた報告書を発表した。それによると、多くの住民が放射線への恐怖や生活が混乱したことでメンタルヘルス(心の健康)に悪影響を受けているという。

この地域の汚染の実態を長年にわたり詳しく調べてきた科学者として、ラプテフさんはナロディチの人々が放射線を恐れるとは思わなかったと認めた。

「事故から30年以上たっても、住民の生活に大きい影響を与えている。本当に驚いた」

放射線への恐怖は、人の肉体だけでなく、心をも痛めつける。

放射線を浴びたらもうおしまいだという感覚から、多くの人が諦観や絶望感にさいなまれている。このことが、この地域の高い喫煙率とアルコール依存症の原因だとみられている。どちらも人々の健康に、決定的な悪影響をもたらす。

スミス教授は、「確かにここではひどいことが起きた。しかし、そのことが住民の生活の全てに影を落としてしまっている」と話した。

「非常に、非常に難しいことだが、住民がおびえずに暮らせる状態、放射線という暗雲が晴れた状態へ、なんとしても進まなくてはならない」

どこにも行かない

ラプテフさんは少しうんざりした表情で会議の場を離れたが、慎重ではあるが楽観的だと話した。

この日は公式に立ち入り禁止区域の変更は決まらなかったが、その場にいた大半の人が変更が必要だということで一致したのが最も大事なことだ。

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ナロディチで開かれた会議では、立ち入り禁止区域の今後が話し合われた

ラプテフさんは、「もっと多くの人に戻って欲しいというのが、地域の人たちの願いだ。そして私たち科学者は、立ち入り禁止指定を簡単に解除できる場所がたくさんあるのを知っている。なので、とても前向きな機会だったと思う」と話した。

幼稚園では、クラフチェンコさんが午後の昼寝のために子どもたちを屋内に集めていた。

幼稚園の新しい建物には、可愛らしい小さなベッドが並んでいる。この建物は日本の慈善団体からの寄付で建てられた。

2011年に起きた東京電力福島第一原子力発電所の事故によって、日本では原発事故の影響について理解しようという動きが始まっている。その日本側からウクライナに働きかけたことで、両国の関係は深まったという。

新築でピカピカの幼稚園と、その近くで廃墟となったままのたくさんの民家を見比べながら、クラフチェンコさんはこの町の立ち入り禁止指定解除を支持すると話した。

「そうすれば、あの家をどれも建て直せるし、人が住めるようになる。それを夢見ています」

「私たちはここに住んでいます。どこにも行きません。私たちの子どもたちも、ここに住んでいるんです」

文:ヴィクトリア・ジルBBC科学担当編集委員、写真:ジェマ・コックス、図:リリー・フイン、サナ・ジャセミ