ラグビーと「アパルトヘイト」 50年前に何があった

マット・ロイド、BBCニュース

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Image caption ラグビークラブに雇われた「番人」たちが暴力の大部分に関わったとされる

南アフリカの残忍なアパルトヘイト(人種隔離)政権を打倒するための闘いにおいて、1969年11月15日は「地殻変動的」に重要な日となった。

英ウェールズを訪れた、ラグビーの南アフリカ代表チームに抗議する平和的なデモは、スポーツ界にとどまらず、政界にも衝撃を与えることになった。

「スウォンジーの闘い」と呼ばれる、デモ参加者に対する暴力事件は、何百人ものけが人と逮捕者を出した。

それからちょうど50年後、シヤ・コリシ選手が日本で、2019年ラグビーワールドカップ(W杯)を掲げた

スプリングボクス(南アフリカ代表)は、南アフリカの白人コミュニティーのプライドを象徴する存在だった。1969年には、黒人選手がキャプテンになる可能性を検討することはおろか、想像する人などほぼ皆無だった。

国家体制としての差別制度のもと27年間を刑務所で過ごしたネルソン・マンデラ氏は当時、5年目の獄中生活を送っていた。

前年には、イングランドがクリケットチームの南アフリカ遠征を中止していた。異人種の間に生まれたバジル・ドリヴェイラ選手の入国を、南アフリカが拒んだことが理由だった。

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Image caption 南アフリカのクリケットチームのイギリス遠征をやめさせようと多くの人が抗議した

それだけに、黒人を排斥した南アフリカのラグビーチームがイギリスに向けて出発すると、これを妨害しようとする抗議者が押し寄せた。

「手荒い出迎えを受けるとは思っていた。でも、あれほど見事に組織化されているとは考えなかった」と、南アフリカチームの副キャプテンだったトミー・ベッドフォード氏は言う。

「自分たちの国やスポーツ界では、あの手のデモへの対応を迫られたことは一度もなかった。だから、楽な遠征になるとは思っていなかった」

「それでも、南アフリカの白人コミュニティー出身の30人が他国の事情を知れば、帰国後に『この国でもそうするべきだ』と言うのではないかと、強く感じていた」

Image caption 反アパルトヘイトの抗議活動をしていたピーター・ヘイン氏(マイクを持っている人)は、南アフリカの白人コミュニティーの一部から「裏切り者」と呼ばれた

抗議行動の先頭に立ったのは、当時19歳の学生だったピーター・ヘイン氏。いずれ英首相となるエジンバラのゴードン・ブラウン氏も手伝った。このグループは、南アフリカのクリケット選手たち(翌年に遠征が予定されていた)に一歩もイギリスの地を踏ませないと固く決心していた。そのため、大騒ぎを起こしてやろうとしていた。

世界は徐々に、アパルトヘイトの恐ろしさに気づき始めていた。しかし、ラグビー界はそうした声に耳を貸さなかった。

「率直に言って、反アパルトヘイトの抗議者と選手、観客たちの間の、互いに聞く耳をもたない対話だった」と、現在は貴族院(上院)議員になったヘイン卿は振り返る。

「私たちは選手たちに、君たちは世界で最も邪悪で人種差別的な体制に協力しているのだと、言い聞かせようとした。けれども選手たちは、試合を妨害しているだけだと受けとめ、私たちをひどく憎んだ」

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Image caption ハイウェル・フランシス氏は「軍隊式の作戦だった」と当時の警察の取り締まりを振り返る

トゥイッケナム、レスター、ニューポートにおける開幕戦でも、デモが繰り広げられた。しかし、転換点となったのはスウォンジーでの試合だった。

デモ隊は市の官庁街を問題なく通り過ぎた。ところが、セントヘレンズ・ラグビー場の入り口に来ると一変した。

「みんなデモに参加するのはとても大事だと思っていた。穏やかでみんな楽しそうだった」と、メア・フランシスは思い起こす。

「そうしたら、命令を受けた警官隊が私たちの間に入ってきて、観客席と反対の防波堤へと追い込んだ」

「みんなヒステリックになって、警官隊に押すなと叫んだ。息ができなかったから。男の子の中には、壁を登って私たちを引き上げてくれた人もいた」

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Image caption メア・フランシス氏は、当時の状況について「恐ろしかった」と語った

ラグビー場の中では、選手たちが人生最大の試合(何人かにとっては)を前に準備していた。抗議の大音響は、選手たちを動揺させた。

「キャプテンの私も、チームの他のみんなも、クラブも、それにラグビー全体も、このモラルの問題を無視することを選んだ。それが本当のところだった。もしこの態度をいま見せれば、私は娘たちに批判されるだろう」と、スウォンジーのキャプテンだったスチュワート・デイヴィース氏は話す。

「モリー・エヴァンス監督と私は、選手たちを更衣室に連れて行って落ち着かせたかった。抗議の騒音はものすごかった」

「試合中はずっと、グラウンドに奇妙な緊張感が漂い、私たちは全員その影響を受けた。スプリングボクスはこの経験で悲しい思いをしたと言える」

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Image caption 発足して間もなかったサウス・ウェールズの警官隊は、その行動に多くの批判が集まった
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Image caption スチュワート・デイヴィース氏は「いったい何が起きているんだと、みんな戸惑った」と話す

反アパルトヘイト運動は、スポーツを政治で汚したと批判された。

それでも、試合後半の早い時間に、抗議者たちはピッチにどっとなだれ込んだ。芝の上に寝そべっておとなしく反抗し、試合を中断させた。

このとき、警察を助けるためにクラブが雇った「番人」の残酷な振る舞いは、世界中の話題になった。

「スウォンジーは、特にたちが悪かった。そのせいで、重大事件になってしまった」とヘイン氏は言う。

「抗議者はピッチから番人のところへ連れて行かれた。彼らは抗議者を徹底的に痛めつけるため、クラブに雇われていた」

「友人のあごが折れたのを見たときはショックだった。失明しそうな女性の抗議者を見たときも」

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Image caption 抗議者たちは体で抵抗しないよう、警官に体を抑えられた場合は脱力するよう指示されていた
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Image caption ピッチに浸入した人たちの多くは、ラグビーファンの怒りに直面した

11人の警察官を含め、100人以上がけがをした。

衝撃は大きく、数日のうちに議会は、遠征試合を中止する可能性も含めて話し合った

当時の内相で後に首相になるジェイムズ・キャラハン氏は、中止寸前で踏みとどまった。国民に不人気だからと大会を中止するのは、「危険な坂を滑っていく」ことになると訴えた。

ただキャラハン氏は警察に対し、会合を開いて、残りの遠征試合の警備について話し合うよう命じた。

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Image caption 当時内相だったジェイムズ・キャラハン氏は、セントへレンズ・ラグビー場での「番人」たちの役割を批判した

「世話人(番人)たちが果たしてどれだけ有益なのか、検討していただきたい」とキャラハン氏は議会に告げた。

「スウォンジーでの彼らの行動は、世間で大きな議論を呼んだ」

この後、さらに大規模のデモが続いた。どの試合も、暴力と厳重な取り締まりの雰囲気の中で開かれた。それでも、スウォンジーでみられたような暴力が繰り返されることはなかった。

当時の様子を目撃し、後に国会議員になったハイウェル・フランシス氏は、スウォンジーの出来事は「典型的なものではなかった」と言う。

「初めは私たちの抗議活動はあまり理解されなかった。暴力沙汰でメディアが注目するようになり、後世に語られるようになった」

「まさにあの時、人々は気づき始めた。進歩的な人が黒人への連帯を示すだけでなく、南アフリカに抗議する世界的な運動になっていった」

「私たちがやったのは、とても小さいことだったが、自分たちにやれることをした。ラグビーは大事だ。だが、人権より大事なわけではない」

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Image caption ネルソン・マンデラ氏は1994年に南アフリカの大統領に選ばれた。同国がラグビーワールドカップで歴史的な優勝を果たす前年だった

マンチェスターとアバディーンでも大規模なデモが起きた。一方、ベルファストの試合は中止された。

ロンドンでは、イングランド戦当日の朝、スプリングボクスの選手たちのバスを、抗議者の1人が「ハイジャック」する事件すら起きた。

「警察の規制線と有刺鉄線の中でずっと過ごしていた。バスがハイジャックされても、どうってことなかった」とベッドフォード氏は言う。

「誰も私たちを守ろうとしなかったのは、ショックだった。チーム首脳陣は何も言わなかったし、(地元のチームも)怖気づいて黙っていた。私たちを擁護するのは簡単ではなかったのはわかるが、その場にいる権利を守ってくれてもよかった」

Image caption ウェールズの反アパルトヘイト運動は当時、世界で「最も効果的な部類」と言われた

ネルソン・マンデラ氏が収監されていたロベン島の刑務所には、外の世界のニュースはいっさい届かないはずだった。しかしそこにも、この出来事は伝わった。スプリングボクスのサポーターの刑務官たちが、激怒していたのだ。

「看守たちはネルソン・マンデラ氏と彼の同志たちに八つ当たりした。しかし、それによって自分たちが実は何をしているか、気づいていなかった。八つ当たりすることで、看守たちはマンデラ氏たちに特別なことを伝えていた。マンデラ氏らの自由を求めて、何千人もの人が抗議しているのだと」と、ヘイン卿は話す。

「反アパルトヘイト運動の暗黒時代だった当時、おかげで大いに士気が高まったと、彼は言っていた」

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Image caption スウォンジーのキャプテンだったスチュワート・デイヴィース氏は「試合そのもののことは誰も覚えていない」と認める

トム・ベッドフォード氏も、変化の到来を感じていた。

「ウェールズでの最後の夜、こうした状況では、将来の遠征はとても難しくなるだろうと考えた」

「政治的な飛躍が必要だというのが私の実感だった。でも、私はただのラグビー選手で、その素晴らしい競技には汚点がついてしまった。この問題にどう取り組んだらいいのか?」

「個人的には、南アフリカに帰るのはとても大変だった。最後には、いろんなトラブルに見舞われた」

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Image caption トム・ベッドフォード氏(右から2人目)は、自国のアパルトヘイト政権を批判する立場を鮮明にした

ベッドフォード氏がこのわずか2年後に、国際試合から早すぎる引退をしたのは、その反アパルトヘイトの姿勢が原因だったとみられている。

南アフリカ・クリケットチームの1970年遠征は中止された。これを皮切りに、サッカー、クリケット、オリンピックなどのスポーツで、南アフリカの代表チームや選手を排斥する動きが拡大し、それは25年間続いた。

ベッドフォード氏はその後、国外追放されていたアフリカ民族会議(ANC)と共に1987年の歴史的なダカール会議に出席。政府に逆らうことになる。その後、南アフリカ政治の根本を変化させるための基礎づくりに取りかかり、それがついには、アパルトヘイト政権の崩壊につながる。

あの大変な遠征からちょうど50年目に、「考えられないこと」が起きた。南アフリカのラグビー史上で最初の黒人キャプテンが、スプリングボクスを最高の栄誉へと導いたのだ。

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Image caption 50年後、南アフリカのラグビーで最初の黒人キャプテンとなったシヤ・コリシ選手が、ワールドカップを手にヨハネスブルクに戻った

反アパルトヘイトの抗議者たちにとって、それは自らの努力が「正しかったと実感できるもの」だった。

「私たちは50年前、まさに日本で見られた光景のために抗議した。いろんな人種の人がいるチームを、貧困地域出身の黒人キャプテンが率いた。そのキャプテンは子どものころ、次の食事にありつけるかもわからず、ましてや次にラグビーができるのはどこなのかもわからなかった」

フランシス氏はさらに、こう言う。「ワールドカップ決勝を見ていたら涙が出た。そして、あの恐ろしい制度を壊すのに少しは役立ったと思うと、誇りも感じた」

(英語記事 How a rugby game became a battle against apartheid

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