ローマ教皇が長崎で追悼 日本二十六聖人と踏み絵

イヴェット・タン、BBCニュース

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日本を訪問したローマ教皇フランシスコ1世は24日、第2次世界大戦で核兵器の被爆地となった長崎を訪れ、犠牲となった市民を追悼した。その一方で、あまり知られていないあるグループにも哀悼の意を示した。数百年前、キリスト教徒だったことで迫害され、拷問を受けた人たちだ。

ひとりの男が不安げな表情で列に並んでいる。名前を呼ばれると、この日のために出張してきた中央や地元の役人の前へ進む。

男の前には、十字架にかけられたイエス・キリストが描かれた銅版画が置かれており、この絵を踏むように指示される。

この絵を踏めば、男は公に信仰を抱いていないと見なされる。もし踏まなければ、死刑や磔刑(たっけい)に処せられる可能性がある。あるいは熱湯に入れられたり、逆さに吊るされて肥溜めに落とされたりといった拷問を受けることになるかもしれない。

少しでもためらえば、命を落とすことになりかねない。

キリストの絵を踏むいわゆる「踏み絵」は、17世紀に長崎で広く行われていた。

「邪宗門」とされたキリスト教

主要な港町である長崎にキリスト教がもたらされたのは1560年ごろ、ポルトガルのイエズス会宣教師が日本に到着しだしてからだ。ポルトガルは当時、アフリカからアジアまでを股にかける海洋帝国だった。

イエズス会の宣教師らは、長崎周辺の大名を改宗しようとはたらきかけた。これに対し一部の大名は、改宗することでポルトガルとの貿易で支援を得られるのではないかと考えた。こうした大名の支配下では民衆も影響を受けてキリスト教徒になっていき、17世紀初頭には、長崎は「日本のローマ」となった。

アイルランド国立大学でアジア研究を行っているキリ・パラモア教授はBBCの取材に対し、「長崎はキリスト教区として栄えた」と説明する。

「長崎ほどキリスト教が浸透している場所は日本にはない」

最も多いときで、50万人近くの住民がキリスト教徒だったこともあるという。

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Image caption 17世紀に長崎に渡ったポルトガル船

しかしその後、キリスト教の急激な成長が脅威になると判断した中央幕府は、取り締まりに乗り出した。

「彼らは国家の安全への脅威として、キリスト教と共に外国人も排除しようとした。(中略)この2つは関連している」とパラモア教授は説明する。

16世紀後半、長崎で宣教師や信者など26人が十字架にかけられて処刑された。これが長きにわたるキリスト教徒迫害の始まりだった。

1614年には日本全土でキリスト教が禁止され、すぐに外国の宣教師は日本から退去させられた。退去を拒否した者は逮捕され、殺され、あるいは棄教を命じられた。日本は徳川幕府の時代、ほとんど全ての国との接触を断ち、長い鎖国に入っていく。

拷問に次ぐ拷問

1620年代ごろ、幕府は宗教指導者の排除だけでは十分ではないと判断し、人々の心からキリスト教を根絶する政策を考える必要に迫られた。

その答えが踏み絵だ。キリストや聖母マリアが彫られた真鍮(しんちゅう)の板で、木の板にはめられていることもあった。長崎に住む全ての住民が、この絵を踏むことを命じられた。間もなく、踏み絵は長崎で毎年行われることになる。

「踏み絵は平民や武士、仏僧までもが果たさなければならない責務だった。病人のところには、わざわざ絵を持ってきて踏ませた。あらゆる人がやらなくてはならなかった」とフランス極東学院のマルティン・ラモス教授(日本研究)は説明する。

「当時のキリスト教徒は偶像に依拠していたため、これはよく考えられた施策だった。人々はマリアやイエスの肖像の前で祈っていたし、神に関する知識の多くは偶像の中にあった。信者にとって、神性とつながっている(中略)偶像を踏むことは非常に恐ろしいことだった」

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Image caption 踏み絵に使われた絵。イエス・キリストの顔の部分が特に磨耗している

しかし多くの信者が信仰を諦め、踏み絵を踏んだ。

長崎純心大学で日本のキリスト教を専門にしているサイモン・ハル教授は、「踏み絵を注意深く観察すると、キリストの顔が最も擦り切れていることが分かる。数え切れないほどの回数、踏まれたということだ」と指摘する。

踏み絵を拒否したキリスト教徒は殺されるか、拷問にかけられた。

パラモア教授によると、「時には、肥溜めの上に逆さ吊りにすることもあった。こめかみに切り傷を入れることで血圧を下げ、死なないようにした」という。

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Image caption キリスト教徒に対する拷問の中には、肥溜めの上に逆さ吊りにするというものもあった

拷問の目的は、キリスト教徒を殺すことではなく、「信仰を砕く」ことにあったという。

「時には医者が拷問に付き添い、信者が死んだようになっても治療をし、また拷問にかけたりしていた」とハル教授は説明する。

棄教を拒否して殉教した信者の数は2000人に上るとされている。

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Image caption 1622年9月10日、イエズス会の宣教師らが長崎で処刑された「元和の大殉教」の様子を描いた絵

一方、信仰を捨てたと見せかけて、密かに信仰を続けたキリスト教徒もいた。隠れキリシタンと呼ばれる人たちだ。

「こうした人たちは家に帰ってから神に許しを求めた。あるコミュニティーでは、履いていた草履を燃やし、その灰を水に混ぜて飲むことで懺悔の証としたという」とハル教授は話した。

ラモス教授によると、隠れキリシタンは「密かに洗礼を行ったり、パウロやマリオ、イサベラといったポルトガル語の洗礼名を子どもに与えたりしていた。クリスマスやイースターも祝っていただろう」という。

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Image caption 聖母マリアに擬せられた観音菩薩像

また、キリスト教徒と特定されないために、信仰に日本的な要素を組み込んでいたという。

オークランド大学のマーク・ミュリンズ教授(日本研究)は、「たとえば、聖体拝領で使うパンの代わりに米を使っていた」と説明する。

また、観音菩薩などの仏教の信仰対象を聖母マリアに見立てることもあった。

ラモス教授は、「日本のキリスト教徒は200年以上にわたって(外国の)宣教師との接触が断たれていた。そのため、土着の宗教となって次世代に受け継がれていった」と語った。

鎖国が終わって

19世紀末、日本は再び開国した。1858年には長崎で踏み絵が廃止され、1873年にはキリスト教も解禁された。

ミュリンズ教授は、「開国当時、およそ2万人の隠れキリシタンが現れた」と説明する。

「キリスト教徒が約50万人から2万人に減ったのだから、その意味では踏み絵は効果的だった」

教皇フランシスコ1世は24日、日本二十六聖人殉教者記念碑に立ち寄り、祈りを捧げた。現在、日本のキリスト教徒は126万人と、人口の1%ほどだ。長崎はいまも、日本最大のキリスト教コミュニティーを有している。

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Image caption 教皇フランシスコ1世は24日、日本二十六聖人殉教者記念碑に立ち寄り、祈りを捧げた

ハル教授は、「日本のキリスト教史における逆説のひとつとして、もし日本のカトリック教徒が全員踏み絵を踏むのを拒んで殉職していたら、日本のキリスト教も死んでしまっただろうということだ」と話した。

「日本でキリスト教が生きながらえたのは、大きな罪になると知りながら踏み絵を踏むという、実存主義的な判断をしたキリスト教徒のおかげだ」

(英語記事 The Christians forced to trample on Christ

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