【解説】 イギリス政府はパンデミックとどう闘ったか 1年間の舞台裏

ローラ・クンスバーグ、政治編集長

No 10 Downing Street

2020年3月の初めに、私は政府幹部に「心配ですか?」と尋ねた。その人は「個人的に? いいえ」と答えた。しかしそれからわずか数週間もすると、ロンドン・ダウニング街の首相官邸は、第2次世界大戦以降で最大の危機に、何とか対応しようと必死になっていた。

あれ以来、いくつもの大きな決断が必要だった。そして、いくつもの失敗があったと非難も相次いだ。個人防護具(PPE)がどうしようもなく不足したことや、新型コロナウイルスが何の準備もできていない介護施設を次々と襲ったこと、経済をなんとか回し続けるために数千億ポンドの借金が積み上がったこと、などなどなど。

政府の重要決定を目撃した、もしくは関わった政府幹部や元幹部、政界重鎮など20人にそれぞれ、過去12カ月の間で決定的な分岐点となった5つの出来事を選んでもらった。

イギリスの新型ウイルス対策に深く関わった人たちの回答から、実際に何があったのか、この国の首脳陣は何を考えていたのか、そしていかに情報が少なかったか、当時の状況があらためて浮き彫りになった。

取材に協力してくれた人たちは、自由に発言できるよう、文中匿名になっている。

すぐそこまで来ているウイルス

昨年1月31日に感染者2人が入院し、イギリスにも新型コロナウイルスがやってきたと報告された。中国から退避したイギリス人80人以上が、イングランド北西部の隔離施設に入った。しかし、この日の政府が最も力を注いだのは、ブレグジットだった。この日は、イギリスが正式に欧州連合(EU)を離脱する日だった。

首相とブレグジット担当チームはくたびれ切っていたが、それでも大いに盛り上がっていた。ボリス・ジョンソン首相は「やっといよいよ本格的に勢いが出てきた」感じだと、関係者の1人は私にそう言った。

閣僚や政府関係者はすでに、中国のウイルスについて協議を始めていた。しかし、何千キロも離れた場所での出来事のように思えていた。「心配する気持ちも、問題にかけるエネルギーも、不足していた」と、消息筋の1人は私に話した。「騒ぎすぎだ、ただのインフルエンザだというのが、大方の意見だった」。

首相に至っては、「無視するのがベストだ」とさえ発言していた。そして複数の消息筋によると、過剰反応は益より害の方が大きいと、首相は繰り返し警告していた。

首相官邸では少人数のグループが毎日、会議を開くようになった。「いざという時にどう対応すべきか、しっかりした緊急対応の計画がないことがはっきりしたから」だと、参加者の1人は言う。

しかし私が取材した多くの関係者にとって、事態が根本的に変化したのは2月末、イタリア北部で感染者が一気に増えた時のことだ。現場がイギリスにぐんと近くなったこともあり、閣僚の1人によると、イングランド首席医務官のクリス・ウィッティー教授は、ウイルスが中国の外に出れば世界中に広がり、イギリスにもやって来るとすでに警告していた。

「自分にとっては、イタリア北部の写真を見たときが、一番大きかった」と、政府幹部は話した。「対応しなければ、自分たちも同じことになると思った」。

イタリアが大混乱に陥っているという報告を得て、政府関係者にとって新型ウイルスは「単に存在を把握しているだけではなく、ロンバルディアの混乱の原因だと認識が変わった」という。「大勢が病院の床に寝かされている」光景を前に、なんとかしなくてはイギリスも同じことになってしまうと、政府は理解したのだという。

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ではどう対応するのが良いのか、閣僚や官僚の激しい議論が続いた。首相や多くの閣僚は、ロックダウンのような厳しい措置には消極的だった。ロックダウンなど、その発想自体があまりに荒唐無稽だと、大勢が考えていた。

首相にとっては、人との握手をやめることさえ、やりすぎだった。

新型コロナウイルスに関する最初の本格的な記者会見は、3月3日だった。会見前の予習で側近たちは、もし会見で記者に質問されたら、政府科学顧問の助言に従い、握手をやめるべきだと言うよう、首相に説明してあった。

それでも首相は正反対の発言をした。新型ウイルス感染症COVID-19の患者が複数入院している病院を訪問したことについて、ジョンソン氏は記者団に「全員と握手したんだ」と話したのだ。

しかも、これはうっかり口を滑らせた失言ではなかったと、同席した政府関係者は言う。「(首相が)問題をどう捉えていたか」を赤裸々に語る発言だったと。そして、「どれだけ厳しい事態がやってくるのか、(ジョンソン氏が)理解していなかった」ことも表す発言だったとも言う。

これについて官邸報道官はBBCに対して、「首相は当時、手を頻繁に洗うなど、自分は注意深く行動しているとはっきり示していた。社会的距離に関する指針が変わった時点で、首相の対応も変わった」のだと説明した。

ジョンソン氏は、新型ウイルスに関する緊急治安閣僚会議(COBRA)に最初のころは欠席したものの、3月のこの時点では出席するようになっていた。COBRAは、政府関係各局の担当者やスコットランド、北アイルランド、ウェールズの各自治政府首脳が揃う場だ。

しかし、同時期にCOBRAに出席した政界幹部はこう言う。「首相が出席した最初のころの会議は、ひどいものだった」と。そして官邸内では、政府の対応力に対する政府幹部たちの懸念は大きくなるばかりだった。

物資や機材の調達や配送について、施設の確保について、大問題が山積していた。ウイルスはイギリス国内をどれくらいの速度で移動するのか。中国が実施した感染抑制策はイギリスではどれくらい効くのか。分からないことだらけだった。たとえば、無症状の人が周囲にうつすことがあるのか、よく分かっていなかった。あるいは、学期半ばの休暇で北ヨーロッパに旅行していた人たちがイギリスに戻ることで、ウイルスを次々と持ち帰っていることも、十分に理解されていなかった。

厳格なロックダウンを実施すべきか、それとも最も感染リスクの高い人だけを守る計画の方が良いのか、あるいはいっそ「一定の集団免疫」(という表現の説明を私は当時受けていた)獲得を奨励すべきなのか。「政府内で当時このことが真剣に議論されていたものの、議論していたこと自体を後に全員が否定するようになった」と、政府幹部の1人は話す。

「水疱瘡(みずぼうそう)パーティー」を提案してはどうかという話さえあった。健康な人が互いに進んで、病気を周囲にうつして回るのが良いのではないかと。これは実際の政策案ではなかったものの、新型ウイルスを徹底的に押さえ込むのはかえって逆効果なのではないかと、これは真剣に検討されていた。

ジョンソン首相が3月3日に政府の新型ウイルス対策行動計画を発表した時点で、重点が置かれたのは早期発見と感染抑制だった。

しかし3月12日になると、官邸の晩餐(ばんさん)室でぎゅうぎゅう詰めになった記者団を前に首相は、イギリスは数十年来なかったほどひどい医療危機に直面しているのだと国民に語った。症状のある人は全員、1週間は自宅にとどまるよう言われた。

しかし首相顧問たちは、まだ学校を休校にしたり大規模集会を禁止する必要はないと、自信がある様子だった。そして、政府の科学顧問たちは、事態進行のペースを落として悪化を防げるだけの時間はまだあると、感染のピークはまだ10~14週は先のことだと考えていた。

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しかしこのころ政府内では、感染拡大のペースが予想よりもはるかに速いという懸念が高まっていた。感染急増のペースをなだらかにしようという計画は、うまくいかないのではないかという懸念も同様だ。

「自分たちの手の中で政府の仕組みが壊れていく」ような気がしたと、関係者の1人は言う。状況がまるで「内破」しているかのようで、首相が3月12日に示した行動計画は48時間もたたないうちに、すでに古過ぎて役立たずに思えてしまったと。

ジョンソン首相は3月23日夜に、ロックダウンを宣言した。これが遅すぎたのかどうか、議論は尽きない。しかし、関係者に取材を重ねる中で、喫緊の対応がなんとしても必要だという切迫感が官邸内に生じた瞬間がひとつあることが、明らかになった。

動画説明,

「家から出ないでください」 ジョンソン英首相

3月13日に政府非常時科学諮問委員会(SAGE)は、ウイルスが予想以上に速いペースで広がっていると結論した。

しかし現役の政府幹部によると、発表したばかりの行程表で政府がそのまま突き進めば壊滅的な破局に至ると気づいたのは、数字をあらためて精査していた、官邸内の数理モデル担当たちだった。

翌朝になると、少数の主要スタッフが集まった。ホワイトボードには簡単なグラフが描かれた。首相は、自分が発表したばかりの行動計画のままでは、感染者が一気に急増し、国民保健サービス(NHS)が破綻(はたん)してしまうと、容赦のない予測を突きつけられた。

この会議に同席していた複数の関係者が、口を揃えてこう言う。事態の緊急性をジョンソン氏が認識したのは、この瞬間だったと。新しい伝染病が広がる速度についての政府予測が、間違っていたのだ。

NHSが「倒れる」のを防ぐには、政府は感染者の増加に合わせて行動制限を実施しなくてはならないというのが、首相への提言だった。感染者が減れば制限は緩和できるものの、「今後18カ月の間に、何回も波がやってきて」、同じことを繰り返すことになるかもしれないと。

この日の会議で示された「ヘビのようなグラフ」をはっきり覚えていると、複数の参加者が話す。

これを機に、何もかもが「電光石火」に動き始めたのだと、関係者の1人は言う。そして、インペリアル・コレッジ・ロンドンが数日後に発表した恐ろしい予測の公表に先立ち、官邸内では計画の立案が急ピッチで進んだ。

3月16日になると、首相は新しい対策を発表した。市民には、不要不急の接触をすべてやめて、可能な限り在宅勤務に切り替えるよう求めた。

新しい閣内委員会が次々と立ち上がり、政府の仕組みは新しい段階に入った。政策を決めるのは首相と、「クアッド」と呼ばれる4人。つまり、マット・ハンコック保健相、マイケル・ゴーヴ内閣府担当閣外相、ドミニク・ラーブ外相、リシ・スーナク財務相の4人だ。

「テストステロンまみれの、緊迫した」状態だったという。

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3月半ばのこの週に、政府は一気にギアを入れ替えた。その急激な変化に、多くの政府関係者は驚愕(きょうがく)した。しかし、政府の対応は遅すぎたと今なお批判する人は大勢いる。

まず国の色々な仕組みを準備万端に整えたい勢力と、ともかくウイルスに対抗して素早く動くのが何より先決だと力説する勢力が、対立することになった。

しかし、今あらためて取材してみると、誰もが口を揃えてこういう言う。当時いかに、この病気について自分たちが分かっていなかったか。

「あの時あれとこれが分かっていたらと、後になって地団駄踏むこともできるが、ともかく何の準備もできていなかった」のだと、閣僚の1人は言う。

別の閣僚は、「もっと長い間、もっと厳しくロックダウンすべきだったと後から言うのは簡単だが、いったい何が国の利益になるのか、議論はもっと複雑だ」と話す。

それに、何もかもあまりに奇妙だった。

ロックダウン開始時に色々と発言していた閣僚は、「自分の原稿にそう書き込んだ時のことを覚えている。自分がこんなことを言うなんて、信じられなかった」と振り返る。

あまりにとてつもない事態だと感じていた別の政府関係者は、「大戦中に学校は閉めたのか?」とグーグル検索したのという。

さらに別の政府関係者は、「世間に認めていた以上に、我々は事態が見えていなかった」と認めるし、最初のロックダウンから1年たった今もそれは変わらないと示唆する。

ジョンソン首相、欠場

3月18日の時点でBBCは、何人かの官邸スタッフが発病したと報道した。「みんなバタバタと倒れていた」と、関係者の1人は振り返る。

しかし、首相はまるで自分はリスクと無関係だとでもいうように振舞っていた。自分の胸を叩いてたくましさをスタッフに強調するのが、いつしか癖になっていた。しかし間もなく、自分の胸を叩く代わりに「激しく咳き込む」ことが増えた。ウイルス検査キットは世界中で不足していたが、3月25日になって首相用に必要だということになった。そしてその2日後に、首相の陽性が判明した

首相は隣接するダウニング街11番地の財務相公邸に移り、首相官邸の執務室より大きいその執務棟で隔離しながら、職務を続けた。複数の関係者によると、ジョンソン氏はこの隔離生活が本当に嫌いで、秋になって再び(今度は短い間)隔離した際には、まるで「子犬用ゲート」さながら、戸口に椅子を並べる羽目になった。首相のいる部屋の近くまで接近が許されたごく少数のスタッフと、開いたドア越しにやりとりができるように。

そうこうする内に3月末になると、首相の容体はますます悪化した。国民を安心させるためのビデオ・メッセージは、何度も撮り直しが必要になった。

4月5日には、ロンドンのセント・トマス病院へ行くと首相も同意した。息をするのも苦しい状態で、代行はドミニク・ラーブ外相に頼むと電話で告げたのだという。

官邸は当初、たいしたことはないという印象を周囲に与えようとした。首相は入院先でも公文書の入った赤い箱を普段どおり毎日受けとっているのだと、記者団に話していた。その間違った説明は手違いによるものだと、官邸は後に説明したが、今となっては事態はそれどころではなかったのだと分かっている。

本当に危機的だったのは6日夜。ジョンソン氏が集中治療室(ICU)に移動させられた時だった。首相が朝までもつのか、誰も分からなかったし、もし万が一のことがあった場合にどうするのか、どういう手順のどういう計画なのか、誰も知らなかったのだ。

この時点で官邸も政府も、病人だらけだった。病気の広がり方はすさまじく、このとき政府を動かしていたのは「ほんの5~6人だった」そうだ。

首相は気管挿管が必要になるのではないか。官邸内のごくごく少数がこの事態を恐れていた。閣僚を集めて、閣議室の扉を閉じて、首相の後任を選ぶ羽目になるかもしれないと、この少数の政府幹部は話し合ったが、このような状況での決まった手順はなく、結論も出なかった。与党・保守党内では、党首選を経ずに後任に権限を移譲する方法はないか、検討し始めていたそうだ。万が一、首相が死亡した場合、その直後に党内で権力争いをするなど、「あまりに現金」だと思われるのを懸念していたのだという。

閣僚は緊急の電話会議に招集された。「いきなり、電話会議に出るよう言われたんだ。彼が生きているのかも分からない状態で」と、閣僚の1人は話した。この緊急会議を経て、官邸は首相重体の報を公表する準備に取りかかった。

そして、私のところにも官邸から電話がかかってきた。ラーブ外相が国民を安心させようとするので、できるだけ早くカメラクルーと共に外務省に行ってもらいたいと言う、その報道官の声は、恐怖で張り詰めていた。

ジョンソン氏がICUに入ったというニュースを、私たちはタクシーの後部座席から速報した。

「本当に彼を失うかもしれないと思っていた。全面的な権限移譲に備えなくてはならなかった」と、元政府関係者は言う。

あの夜は実に「長い、ショッキングな夜だった」。別の関係者はこう話した。

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バーナード城への迷走

やがて5月末にもなると、新しい感染者の数は減りつつあり、首相はすでに公務にフルタイムで復帰済みで、市民は政府の予想とは裏腹に概ね、行動制限を守っていた。

政府関係者によるルール違反はいくつかあり、それは目立つことだし、政府にとって恥ずかしいものだったが(たとえば4月には、スコットランド自治政府のキャサリン・コルダーウッド主任医務官が別荘を訪れたことを理由に辞任した)、主要閣僚の言葉を借りるなら全体的に「とてつもない善意」が国を覆っていた。

しかしそこに冷水を浴びせたのが、英紙ミラーと英紙ガーディアンの特ダネだった。ジョンソン首相の側近、ドミニク・カミングス上級顧問が3月、妻のCOVID-19発症後にロンドンから数百キロ離れたイングランド北東部ダラム州へ移動していたことが、5月22日に明らかになったのだ。

妻に続いてカミングス自身も感染・発症し、ダラムにある家族の農場で回復するまで過ごした後、ロンドンに戻ったのだが、このことは公にされていなかった。首相官邸でも、ごく一部のスタッフしか知らされていなかった。

しかも、ロックダウン継続中の4月半ばには、「新型ウイルス感染で影響を受けたかもしれない視力を試すため」として、片道30分を運転しながら家族でダラム近郊の観光地バーナード城を訪れていたことも、続けて報道で明らかになった。

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カミングス氏は絶対に辞任しないつもりだった。首相はいったん解任を検討したものの、その後は擁護した。ただしその前に、消息筋によると「離婚協議中のカップルに対する調停」のように緊迫したやりとりがあったのだという。

解任か擁護か決める前、ジョンソン首相はカミングス氏を呼んで、自分なりに経緯を説明するよう求めたという。そして2人は、そのバージョンの経過説明を公表すると決めた。周囲の反対を押して。

取材した多くの人は、この一件がひどい転換点になったと話す。

「自分たちにとっても、これは狂っていた」と、官邸スタッフの1人は言う。

主要閣僚も、「とんでもない対応だった」、「ばかげた話だ」などと批判した。そして、国家的危機の最中にこの騒ぎが起きたことで、「国民の間の政治的合意」が壊れてしまったのだと話した。

ロックダウン開始から2カ月たっていただけに、国民はそろそろ誰かについて怒りたいと思っていたのかもしれない

怒る市民からの抗議メールが次々と、下院議員たちのもとに届いた。私にも届いた。

「ブレグジットにまつわる不快感は、パンデミックの初期にいったんすっかりきれいに洗い流されたが、しかしそれがここで一気に戻ってきた。苦々しい思い、鬱積(うっせき)していたいら立ちが、一気に噴出した」と、主要閣僚の1人は話した。

閣僚の中には、カミングス氏への擁護をツイートする人もいた。しかし、援護射撃に協力しなかった閣僚の1人は、「すぐに辞任すべきだった。先頭に立つには手本にならなくては。自分はあまりに腹が立ったので、チェーンソーで薪(まき)をたくさん割って、イライラを解消していた」と話す。

一部の世論調査によると、特にバーナード城の一件は政府に対する国民の信頼を大きく損ねた。カミングス氏の行動は、「ロックダウンのルールに違反したい人に、格好の言い訳を与えた」のだと消息筋の1人は話した。

しかし政府内では、異例なほどの国民的団結はすでにこの時点で薄れかかっていたという認識があった。ロックダウン解除へ向けて政府が動き始めた途端、市民は行動制限のルールに辟易(へきえき)としてしまったのだと。

ただし、カミングス氏の行動によって、パンデミック下の政治がとげとげしいものになり、合意が形成しにくくなったのは確かだ。

動画説明,

「ボリス・ジョンソンは信用を失った」 上級顧問がロックダウン中に長距離移動で

ロックダウン違反が発覚した政府関係者は、カミングス氏だけではなかった。6月には、北アイルランド自治政府のミシェル・オニール副首相が、統一アイルランド派大物の大規模な葬儀に出席し、大勢の怒りを買った。

しかし、国内の雰囲気が変わったと感じるようになったのは、バーナード城の一件がきっかけだった。

「首相はばかげた間抜けだと、あるいはこの緊急時において能力不足だと、そういうイメージが国内で広まるようになった」と、閣僚の1人は話した。

夏の楽観、9月の機会喪失

夏の間、イギリスはパンデミックに苦しむ国という感じはしなかった。

「過剰に楽観的過ぎる発言が相次いだ」と、1人の政治家は言う。

たとえば、最大野党・労働党の下院議員が6月末に、地元選挙区のパンデミック対応について首相に質問した。大勢が人気の海水浴場に押し寄せるのではないかと、この議員は心配していたのだ。

「ガッツだ」というのが、首相の答えだった。

7月には満面笑みの財務相がロンドンのレストランで、驚く客に日本式カレーを配って回った。財務省が推進する「外食して支援」計画をPRするためだった。続いて首相が市民に、在宅勤務からオフィス通勤に戻すよう呼びかけ始めた。

しかし、政府内では実は、この開放的な気分は賢明とは言えないのではないかと、疑問視する声がかなり出ていた。

「第2波が来るのは分かっていたので」と、閣僚の1人は言う。「しかも、出勤を奨励すべきか、それとも在宅勤務を続けさせるべきかで、ひと悶着(もんちゃく)あった。まったくばかげていた」。

夏の楽観と様々な行動の再開は、「最大のミスだった」と別の政府幹部も言う。「気が大きくなっていたんだ。その責任は首相にある」。

首相は、2度目のロックダウンに入ればとんでもないことになると信じ、何が何でもそれを避けようとしていた。しかし、政策決定に関わる大勢にとっては、2度目の制限強化に首相が徹底的に反対していたのは、事態の妨げになり、危険だった。首相の態度は、政治的な計算によるものにも思えた。

「夏と秋にかけての政府の政策目標は……できる限り何もしないことだった」と、政府幹部の1人は言う。

そうこうする内に各地の海水浴場は満員となり、8月末にもなると官邸内では複数の人が先行きを危ぶんでいた。

消息筋によると、首相は日によっては、ウイルスが戻ってくると心配することもあったが、「なるようになれ」と破れかぶれな日もあったという。その日その日で首相の気持ちがころころ変わり、ぐらついているようだと、政府幹部は深く憂慮していた。

優柔不断では、この病気は抑え込むことはできない。そして、学校や大学が再開した9月初めになると、感染者が「どんどん増えているのがはっきり見えた」と政府幹部は話す。

ウイルス検査の態勢も需要に対応しきれず、陽性判定が出た場合に自主隔離に応じる人、あるいは隔離する余裕のある人は、あまりに少なすぎた。

「夏には色々と自由に行動しても良いという判断は、検査と追跡でウイルスをモグラたたきのように制御できるという前提があってのことだった」と政府筋は言う。「その場合、モグラをしっかりたたいていかないと、この仕組みはうまくいかない」。

9月も半ばになると、「データはすでに悲鳴を上げていた」と関係者の1人は言う。9月17日の時点で私は別の消息筋から、「現時点で何もしなければ、10月末には第1波の時よりひどいことになる」と聞かされた。

官邸はこの時すでに、短期間の「サーキットブレーカー」ロックダウンを検討していた。イングランド主任医務官(CMO)のクリス・ウィッティー教授やサー・パトリック・ヴァランス政府首席科学顧問、カミングス氏らは、厳しい対策の実施を求めていたものの、ジョンソン首相がこれに納得していなかった。

動画説明,

短期的なロックダウン「サーキットブレーカー」とは? 1分で解説

それでも首相を説得しようとする人たちは(現職の政府幹部によると「一致団結して」)、9月20日の日曜日に官邸に大勢の科学者を集めた。しかしそれでも首相は、ためらっていた。

別の現職政府幹部は当時のジョンソン氏の姿勢について、「行動しなくて済む方法があるなら、なぜ行動する必要がある?」というものだったと話す。

それから36時間の内に、官邸内で少人数のグループが繰り返しジョンソン氏を説得しようとしたものの、首相を取り巻く空気は最早かなり変化していたという。

「政府には、あらゆる局面で、最小限のことを、できる限りゆっくりやるよう、イデオロギー的な圧力がかかっていた。そのせいで、ぬかるみのような淀んだ空気が漂っていた」と、政府幹部は話す。加えてジョンソン氏はこの時点で、一部の議員団に内々に、行動制限はもう実施しないと約束していた。

市民の行動をこれ以上制限すれば、経済がどのような打撃を受けるか、財務省は指摘していた。伝統的に保守党寄りの新聞の多くは、規制緩和を強く求めていた。保守党内は揺れていたし、この時点で地元選挙区に感染者がほとんどいなかった閣僚たちは、追加の規制など必要ないと話していた。

そのため、ジョンソン氏が9月22日になってパンデミック対策の行動制限を変更すると発表した時、変更内容は本格的な規制強化と言うよりは微調整に過ぎなかった。このとき私が話した保守党議員の中には、これは自分たちの勝利だと感じる人たちがいたものだ。

こうして、9月に対策の機会を逸したことが、いかに重大だったか、多くの政府幹部が指摘する。今となっては、あれは間違いだったと認める人もいる。

「なんとかして、色々な活動を再開したかった」と閣僚の1人は認める。「自分もそのために強力に運動したが、ゆっくり前に進んだ方が良いのだと、今は学んだ」。

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逆に当時、もっと厳しい対応を求めた別の主要閣僚は今ではこう言う。「秋のもっと早い時点で、もっと厳しくロックダウンするべきだった。そもそも、早めに行動すればするほど、事態打開の戦略を練る時間が稼げる。それがロックダウンの根本的な意味だ」

この9月の政府内議論に敗れた人たちは、今でもいら立ちを込めて当時を振り返る。

「首相は、保守党が受け入れないと話していた」と、そのうちの1人は言う。「ロックダウンが必要なのは分かっていると、ほかのみんなは感じていたのに」。

そして昨年秋に導入された「ティア制度」(イングランドを地域ごとに異なる制限レベルに区分けしたもの)によって、混乱と地域同士の対立が生じたのは間違いない。

「普通の人間にとって、まったく理解不能の代物だった」と、政府幹部は話す。「あまりに鈍重で複雑で、あのせいでさらに感染者が増えた」。

別の関係者は現在、「どんどん自分たちをきつく、ぎゅうぎゅうに、がんじがらめにしていった」と当時を振り返る。ティア制度が日に日に、地域特有の独自システムに変化していったからだ。

9月の時点で政府がブレーキに強く踏み込んでいたら、どうなったか。それを知るのは不可能だ。しかし、第2波があれほどひどいものになった原因は、少なくともその一部は、政府が見るからに行動をためらったからだと、一部の閣僚は言う。

しかし、後にウェールズで導入されたサーキットブレーカーは、問題の解消につながらなかった。心配なのは感染者の数だけではなかった。経済が停止し、破壊されてしまったのだ。政治に求められているものが、変化していた。

ジョンソン首相を擁護する主要閣僚の1人は、「夏の間に国が抱いた前向きな展望を実現しようとしていたなら、それは彼のせいじゃない」と話す。別の閣僚は、当時の政府がまとめた計画や、「検査と追跡、ティア制度」に何十億ポンドも使っていたのだから、「ロックダウン解除は合理的な判断だった」と述べる。

サーキットブレーカーを実施すべきなのは明らかだったという意見を、この2人は拒絶する。「決定打になる提案ではなかった」と。

9月に全国的な行動制限を再開していたらどうだったか。首相官邸は私たちの取材に対して、首相による11月初めの議会答弁を参照するよう促した。

ジョンソン首相は当時、下院にこう述べた。「絶対的に不可欠でなければ、(行動制限)措置を強制したくない(中略)そのため、感染が少ない地域では店やパブやレストランを閉じたりしないで、感染急増中の地域に当初集中するのは、理にかなったことだった」と。

パンデミックの初期段階では、ウイルスについて分からないことがあまりに多く、いくつもの間違いが重なったことは言うまでもない。しかし、2度目の感染拡大時の過ちについて、政策決定担当者たちは今やあまり自分たちを許していない。

ワクチン目指す大きな賭け

ワクチン開発をめぐる大きな賭けを、閣僚の1人は私に「奇跡」と呼んだ。ジョンソン政権は慣例破りが過ぎると批判されがちだが、この件については、今のところは、目覚しい成果を出した。

政府は昨年1月の時点ですでに、その後の展開を検討する中で、ワクチンについても話し合っていた。財務相は早い段階から速やかに予算を提供すると、前向きな姿勢を示していた。成功の保証など要求しないまま。

官邸は4月の時点で、ワクチン開発のため「できることはなんでもする」と決定した。サー・パトリック・ヴァランス科学顧問は欠かせない経験の持ち主だったし、イングランドの医務副主任、ジョナサン・ヴァン=タム教授は、ワクチン開発と供給実施の具体策を明確に提示した。2人の説得に、政治家たちは納得した。ワクチン開発に注力するのは、当時はまだ見通しの立たない巨大な賭けだったのだが。

「早くから大金をつぎ込んで、確実にうまくいくようにする」のだと、早い段階で政府は決断した。高官の1人はそう話す。

この判断は、これより先に医療用個人防護具(PPE)を確保しようとしてうまくいかなかった経験の全てを、反面教師にしていたようだ。PPEの調達については、保健省が所管するNHSの通常の調達手続きが、破綻してしまったのだ。

イギリス政府は早い時点で、EUのワクチン共同購入計画には参加しないと決めた。この決定は表向きは政策論争につながったかもしれないが、政府内では「簡単」で「自明」のものだったと、閣僚も官僚も言う。「ワクチン調達の作業に、ブレグジットのお荷物は一切近づけたくなかった。それは誰もが同じ思いだった」。

加えてEUは、この共同購入計画に参加するなら、EUが契約する製造業者と各国が個別に契約するのは認めないと、方針を明示していた。これはイギリスにとって、特に重要な制約だった。

政府内のワクチン担当チームは5月初めに内閣に対して、確定的なことはなにもないと警告した。「とっくの昔に欲しい」と首相が望むほど素早くワクチンを開発するのは、厳しい挑戦になるとも、釘を刺していた。それでも、「1年後には必ず、やっておけば良かったと後悔することになる」と、それもみんな承知していたのだと、閣僚の1人は言う。

「首相はただちに戦略的に、検査と治療薬とワクチンの組み合わせが、脱出への鍵だと理解した」のだと、有力閣僚は話す。そしてワクチンについて、イギリスは金のかかるギャンブルに打って出る用意ができていた。

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財務省は第2次世界大戦からこちらこれほどの大盤振舞はなかったというほど、予算を使っていた。ワクチン開発につぎこんだ資金はすでに、135億ポンド(約2兆400億円)に上る。

「納税者の税金をあれだけ使って、成功しなかったら、どうなっていたことやら」と、有力官僚の1人は話す。

動画説明,

イギリスのワクチン接種会場の1日 無駄を出さずに速やかに

ワクチン研究が進む間、秘密保持が徹底された。情報漏洩(ろうえい)を防ぐため、ワクチンごとに秘密の暗号名が使われた。暗号名はどれも、潜水艦にちなんだものだった。ファイザー/ビオンテックのワクチンは「アンブッシュ(待ち伏せ攻撃)」と呼ばれたし、オックスフォード/アストラゼネカは(ここで初めて明らかにできるが)「トライアンフ(勝利)」と呼ばれていた。

国民の生命と公衆衛生、国民の生計がどれも危険にさらされる中、どうしたらリスクのバランスがとれるのか。政府の政策決定担当者たちはこの12カ月、果てしなく計算に取り組んできた。そして今や、担当者たちは疲れ果てている。

自分たちは間違うかもしれない、その可能性は十二分にあると受け入れなくてはならない。主要閣僚の1人はそう話す。そしてこの12カ月の間に自分たちが重ねた間違いが、とんでもない被害につながったのかもしれないと、担当者たちはそのことも、いやというほど承知している。